かわち野

かわち野第11集

忘れ得ぬ母の戦争体験

内田 みづほ

 私の母は平成29年に88歳で亡くなった(昭和3年生)。愛知県の山間部で生まれ育った。生前、戦争体験を話すことはほとんどなかった。
 私は昭和26年生まれ、思春期の私は戦争なんて自分には関係ないと無関心を決め込み、母の戦争体験に目をそらしていた。その後、年を重ねて母と向き合うようになった。記憶が不確かなところはあるが、母の戦争体験を書いておきたいと思う。

 これから綴るのは母の戦争の実体験である。
 母から聞いたところによると、戦争(1941年)が始まると村は戦争一色になり、軍が山から切り出した木材を統制した。家が交通の要衝にあったので、検問所になった。林業をしていた父が担当官になり、そして家の離れが事務所になった。戦争が激しくなり、金属が不足し、材木で代用するようになると父は厳しく監視をした。父を見るのがつらかった。が〈お国のため〉なのでどうしようもなかった。
 戦争が激しくなると、親戚の子どもたちが疎開してきた。大家族になり、稲作だけでは足りない。山を開墾して、粟やひえ、そばを作った。雑穀のため、荒れ地でも育つが収穫後の脱穀は手作業のため大変だった。子どもたちは一升瓶にそばの実を入れて棒で突いた。
 戦争が日常にも影響し「欲しがりません 勝つまでは」と教えられ、耐え忍んだ。女性はスカートではなく、全員がもんぺをはかされた。
 高等女学校の時に軍需工場に動員され(愛知県挙母町ころもちょう・現在豊田市)、授業は中止になった。どこの工場なのか何を作っているのかわからなかった。ただ、黙って、もくもくと作り続けた。慣れない作業でけが人も出た。
 寮生活の食事は粗末で、いつも空腹だったが、我慢するしかなかった。規律が厳しく、点呼に間に合わないと全員が折檻を受ける。朝礼に遅れないように毎晩、緊張して寝た。〈家に帰りたい〉と布団の中で泣いた。布団もぺらぺらで、よくあんな布団で寝たものだ。長時間の作業で疲れきっており、食事や洗濯を終えるとすぐ布団に入った。
 ある日突然、教官から家に帰るように言われた。休暇をくれたのだと思い、緊張感から解放されて嬉しくなった。教官からおおよその帰り道と家の方角を教えてもらい、同じ方面の3人で寮を出た。が、しばらく行くと山道になった。日が暮れ、道が分からない。夜通し迷いながら家の方向を目指す。無我夢中で暗闇を歩き続ける。やっと明るくなり山が開けてきた時は生き延びたと思った(帰り道の事ははっきり覚えていない。思い出したくもない。生きた心地がしなかった。もうあんな怖いことはこりごりだ)
 その後、名古屋の大空襲があった。学徒動員で名古屋の工場に行った友人が空襲で亡くなった。私はきっと教官が戦争の悪化を感じて、家に返してくれたのだと思った。
 私には青春はなかった。勉強どころではなく、修学旅行も知らなくて、寂しかった。英語を習うことも小説を読むこともできなかった。当時は楽しみなど考えることすらできなかった。夢はもちろん、望みを持つことも許されず、自由はなかった。恋をすることもなく死んでいった友人が多数いたらしい。戦争は人を苦しめても楽にしてはくれない。もう二度と過ちを繰り返してほしくない。
(母から聞いた戦争体験である)

 私の母は戦前から戦中、戦後の激動の昭和を生きてきた。子どもたちにこうした悲しい少女時代を体験させたくないとの思いで生き抜いた。大切な時期に勉強ができなかった悔しさから子どもには興味があることは何でもするように勧めてくれた。
 戦後80年、日本は平和を歩んでこられた。が、私はそこには多くの犠牲があったことを忘れてはならないと思う。戦争は人々の生活を破壊し、自由を奪った。戦争から得る物は何もない。戦争が終わったからそれで終わりではない。母は心に深い傷を負ったままこの世を去った。母の戦争体験を聞いて、平和のありがたさを身をもって感じた。
 私は世界でいまだに戦争で苦しむ人々を見て胸が痛む。世界の平和が実現するのはいつになるのか。平和の尊さを念じている。