かわち野第11集
渡し板
黒江 良子
小学五年生の時、同じクラスに苗字は違うが、名前が同じ女の子がいた。
彼女は余り友達がなく、口数の少ない、ほっそりした寂し気な感じの少女だった。
校庭で級友数人と遊び始めても「入れて」「寄せて」と言わないし、誘っても首を横に振り輪の中に入らなかったが、いつも私は彼女の視線を背中に強く感じていた。
その頃、彼女のお母さんが昔、芸者をしていたと大人たちが噂をしているのを耳にした事があった。
ある日の下校時、珍しく彼女と一緒になった。
そして不意に、
「良子ちゃん、うちの家に来へん?」と声を掛けられた。
「え!」と一瞬たじろいだが彼女らしくない強い誘いについ、私は付いて行った。
バス通りから少し入った路地の奥に家はあった。
今から思えば、農家の物置を住めるように改造した一部屋のみの家であった。
家の前はぬかるんでいて、入り口まで板を渡してある。
そして、その上を彼女に付いてこわごわ気を付けながらゆっくり歩き、入り口に立った。
八畳くらいの板の間に半分は畳の上敷きが敷かれていた。右側の奥には、コンロと鍋が見え台所の体をなしていた。
「お母ちゃん、良子ちゃん。私と同じ名前やよ」
「いつも、おおきに。上がってもらい」
くぐもった声のおばちゃんに目をやると、ほつれた髪を細い白い指で撫でて、首を左右に振って目は空(くう)を見ている。
──あっ、おばちゃんは目が見えへんのや──
余りの衝撃に身じろぎ一つ出来なかった。
透明感のある白い肌に鼻筋が通っていて、面立ちの美しい人だった。芸者をしていたという事は本当だと思った。
「上がって、お母ちゃんも上がってもらいって言うてるし」と彼女に促されて入った。
畳の上敷きの隅に布団がきちんと畳んで積まれていて、その横におばちゃんは座っていた。
板の間に丸いちゃぶ台があり床もどちらも磨かれてピカピカに光っている。
上がり口には、履物に足が入れやすい方向に並べられてあった。私も上がる時、靴を脱いでから慌てて揃えた。
その後、上げてもらってから、どの様に過ごしたか、何時までいたのか記憶が飛んでいる。
彼女はお姉さんが一人いて三人家族だと言っていた。
「お父さんは?」と聞きたい思いがあったが、これは聞いてはいけないと子供心に強く思った。
帰る時、おばちゃんが「また、来てね」と今度は小さな声であったが、明るくはっきりと言った。
帰りの渡し板の上では行きと違い、軽やかな足の運びとなっていた。
ある雨の下校時、バス通りで友達と別れ横道に入り一人になった。
横道には節穴だらけの板の塀がめぐらされていて、それは彼女の家がある路地の南側に当たる。
ふと、節穴から家が見えるかも知れないと思った。
目の不自由なおばちゃんは「どうしてはんねんやろ?」と気になり覗いてみたくなったのだ。
のぞき見などをして親に知れたら厳しくしかられるのが分かっていた。
けれど、覗いてみたい衝動にかられ、節穴の前で暫く躊躇していた。
そして思い切って、そっと節穴を覗くと家の入り口は閉まっていて雨に濡れた渡し板が見えただけだった。
彼女とは、中学二年、三年と同じクラスになり同窓会でも顔を合わす機会が多くあった。
人づてに彼女は二十歳そこそこで結婚し、良い家庭を築いていると聞いていた。
そんな日から四十数年ぶりの同窓会で、彼女は生き生きとしていて明るく皆とおしゃべりし、小さい頃の面影から想像もつかない雰囲気を放っていた。
わたしは思わず声を掛けた。 「生き生きとしてて、素敵になったね」
「小さい頃、家が貧乏で引っ込み思案で、卑屈になっていたところがあったの。けれど、子供が小学生の時に父兄会の役員をして自信がついた気がするの」
「そう、よかった。あの頃はみんな貧しかったのと違う?」
「ううん、うちが一番貧乏やった」
「貧乏に一位、二位はないよ。心まで貧しくなれへんだら、いいのと違う?」
私は、少し小鼻を膨らませて言った。言い終わるや否や、彼女唐突に、
「二人目の曾孫が生まれたの」
「え! 曾孫、二人も。それはそれは、おめでとうございます。ひいばあちゃん!」
彼女は、はにかんだ表情を見せ、それから満面の笑みを浮かべた。