かわち野第二集
分身と共に
松本 恭子
ざっと掃除をすませて二階へ上る。東南に向く部屋の窓辺で、でんと構える私の分身、足踏みのシンガーミシンを伸びた日ざしが包み込んでいた。かれこれ百年を数える老体でも軽やかに動く。ブラウスの袖づめは二日がかりになった。
昭和二十八年の秋、二十四歳になった私は義姉のはからいでお見合いをした。電器メーカーに勤める二十八歳のその人は長身でルックスもよかったが、優しさと穏やかな性格に魅かれて結婚を決めた。
誰よりも安心し喜んだ両親も、さっそくの嫁入り支度には悩んだことだろう。そのころ、我が家の経済は火の車で、娘の幸せを願いながらも余裕は無かったと思う。
父は北海道開拓農民の指導者で、それまでは、道内各地を農業技術指導技師として転勤を重ねていたが、その職を断ち、北の僻地を拠点にして政治運動を起こし、六年目に入っていた。
日本の無条件降伏で第二次世界大戦は終結し、戦後処理に農地法改正があった。旧地主たちの土地の没収、小作者の土地は無償払い下げ、本州の四分の一とされた北海道の土地評価。その他、諸々まで即刻、施行された。
しかし、北海道の多くの地主たちの土地は国策に沿った開拓地だった。密林を切り拓き、荒野を自らの手で開墾し得たもので、先祖代々、労なく継いだものとは違っていた。これは憲法違反であり、著しい不公平に異議の声を上げた父は、是正と補償を政府に求めた。
退職金は勿論のこと、私有財産の山林、土地家屋を売り払い、全てを政治運動に当ててしまった。
この様な事情で私の嫁入り支度は、兄や姉、親戚からの祝いの品々、母が揃えてくれた桐の和ダンス一棹、夜具の一式でひと通り整った。その中で夫婦布団は夢かと思う程、素敵だった。華やかな紅色で絹の総絞りの表柄に淡いクリーム色の裏地が品よく合っていて、身体がすっぽり埋まりそうに分厚く膨らんでいた。
何もかも真新しく十分な支度に囲まれ、初めて幸せな結婚を実感したが、母は更に自分の嫁入り道具であった、足踏みのシンガーミシンを加えてくれた。母が愛用していたミシンは、私の嫁入り道具となって、紅白の布で覆われた。
嫁いでまもなくのこと、訪ねてくれた義母が「貴女のお道具の中で、このシンガーミシンは一番、価値あるものよ。良い物を持たせて頂いたのだから、大切にお使いなさい」と言って下さった。私の胸のなかには、母のお下がりという負い目が少なからずあった。だが、このとき晴々と誇らしい気持ちになり、母の精いっぱいの親心だったのだと理解できた。
やがて産まれた娘が二歳になったとき、思い切って近くの洋裁研究所に通い、二年半、必死に洋裁の勉強をした。娘が傍らで大人しく遊んでいてくれたおかげもあり、後々、大いに役立った。
ところが「おめでとう! お幸せにね!」と浴びるほど祝福され結婚した私に、早々と辛い試練が待ち受けていた。
夫の名古屋への栄転が決まったとき、義父が失業し、まだ、五人の弟妹が残っていた夫の実家への仕送りが始まった。
給料はやや上がったものの、我が家も何かと物入りだった。生まれたばかりの息子のミルク代。娘の幼稚園の月謝。営業マンの夫は特に身だしなみに気を配っていて、お小遣いも恥をかかない程度に持たせた。それで、どうしても月末の財布の中は空っぽになり、時々、夫の背広のポケットを探り小銭を見つけると、助かった! と思ったものだ。
こんなときに洋裁の腕が役に立った。スーツ、コートなどの注文があると、仕立て代を少し多めに頂くので、その月の家計は潤った。しかし、夢中でミシンを踏み内職をしていたこの頃の「夫、締め出し事件」は、思い出すたび冷や汗が出る。
帰りの遅い夫を待ちながら内職をしていて、つい寝込んでしまった。トントンと軽く玄関のドアをノックする音で目を覚ますと、すっかり夜が明けていて、お向かいの奥様が「ご主人、私のところに泊まりはったぇー」とやわらかな京ことばで知らせてくださったのだ。
夜更けに帰ってきた夫は、おそらく呼び鈴を鳴らしつづけ、ドアを叩きつづけたに違いない。消え入りたいほどの失態で、ご近所に迷惑をかけたが、夫はそれほど私を責めず「無理するなよ」と言い、合鍵を持つようになった。
やりくり生活も工夫次第で楽しく、安い端布で可愛い娘の服が出来上がると、儲かった! と思った。夫の古い背広もYシャツも子供たちや私の服に化けた。娘の友達が言ったそうだ。「私もお母さんの縫った服が着てみたいなぁー」と。安上がりの服でも娘は自慢していたのだろうか。
そう言えば、娘は二十歳を迎えたお祝い着も、振袖は要らないと頑として言い張り、本人の希望で、私がパンタロンスーツを縫って着せた。今でもきれいな振袖姿の成人たちを見かけると、あのとき本当にほしくなかったの? と娘に聞いてみたいと思う。
その後も試練は続いた。義父はとうとう再就職が叶わぬまま肺癌で亡くなり、三人の妹の嫁入り支度は、長男である夫が背負った。貯めては出すを繰り返し、末の妹が嫁ぎ、さあ、これから私達の子供のために、と思った矢先の夫の発病だった。十年に及んだ闘病生活で、私は半身不随の夫を支え、片時も離れず夫婦の絆は深まった。
「僕には恭子が一番だった」
そう言ってくれた夫の言葉は、何よりの贈りものになった。
夫が亡くなって三十一年が経ち、何気ない思いやりが救いだったことに気づく。
「僕が大きくなったらダイヤの指輪を買ってあげるね」
無邪気に言ってくれた息子。娘が靴下の穴を繕っていた様子。時折、遊びに来ていた母は、礼状の中にいつも一万円札をいれてくれた。通り過ぎてみると、どんなことでも懐かしい。
父の厳しく長かった政治運動は、遂に政府を動かし、昭和四十年三月、農地報償法が成立した。全国一律、一千四百五十億円。北海道地区には四十億円が交付された。安堵した父は過労のため急きょ入院し、三日目の朝、他界した。
私に寄り添って六十一年が経つ分身と共に、天国の両親の前で「お陰さまで……」と報告できる日も、そう遠くはなくなった。
今の私はこの上なく幸せで、ひとり占めの幸せを「ごめんね」と亡夫に詫びている。
秋の夕暮れは早く、ようやく終わったリフォームのブラウスを抱えて一階へ下りた。