かわち野

かわち野第八集

二十歳の約束

坂下 啓子

 私の叔母は昭和七年に生まれた。私の父は大正十一年生まれで、叔母より十一歳年上だ。父は元々一人っ子で、髪結いをしていた祖母が女の子を強く欲しがっていた。
 ある日、祖母は遠縁の人と芸者さんとの間に出来た子供が女の子と聞き付け、渡りに船と養子縁組の話を勧めた。産まれて一ヵ月位で我が家の養女なったという経緯がある。
 その子は目のパッチリした女の子らしい可愛い子であったそうだ。祖母は大層可愛がり、寒い時期は顔を洗うのもお湯を持って来て寝床ですませたらしい。叔母の子供の頃の写真は戦時中にも拘わらず、可愛い上等の生地の服を着て写っている。
 しかし、幸せな日々は長くは続かなかった。祖母は昭和十八年突然癌で亡くなってしまった。叔母はその時まだ十一歳だった。父は兵隊として出征していたが運よく内地にいて、死に目には会えなかったが葬儀には帰宅が許された。その時の叔母の様子は可愛そうで後髪を引かれる思いで出征先に戻ったという。祖父は叔母に余り愛情が無く、祖父と二人の生活は辛いものであったらしい。叔母はすっかり無口で自信のない子に育った。
 戦争が終わり、父が帰って来た。何とか自分が早く結婚して妹を家事から解放してやりたいと思っていた。それから上手く母と巡り合い父は結婚する事になり叔母はやっと楽になれた。それからは母を本当の姉のように慕い元の明るい性格に戻っていった。
 やがて私が生まれ五歳になった頃の事だ。叔母の養子縁組を世話した人から連絡があり(生母は赤子を手放す時に二十歳になったら一目合わせる事を条件にしていたらしい)その時の約束をかなえて欲しいと手紙が来たという。祖母が生きていたら反対したと思うが本人の希望を優先して会うことになった。
 そして、その日がやって来た。叔母は最初、一人で会うつもりでいたが
「なんか、ぐつ悪いから啓ちゃん一緒に連れて行く」と言ったらしい。私と叔母は京都駅から省線に乗り、大阪駅から電車を乗り換えて、叔母は何度も人に聞きながら、細い路地を入った暗い長屋にたどり着いた。女の人が二人で出迎えていた。その一人が母親だった。私が見てもすぐ分かった。叔母にそっくりだったのだ。どんな話をしたのかは定かではないが、後から聞いた話では、その人が京都の祇園にいた時は陰から何度か会いに行っていたらしい。お昼に丼物を食べた記憶がぼんやりとある。それから暫くして二人で京都に帰った。叔母は行きしと違い帰りは明るかったのを覚えている。
 何十年かして叔母に会った時に、その時の事を覚えていると話すと
「そうか、よう覚えてるなあ。まだ小さかったのに。啓ちゃん連れて行って良かったわ。落ち着いて母親に会えたし。お母ちゃん(祖母)が亡くなってから近所の人から貰いっ子て聞かされてショックで、何時死んでもいいと思ってた。ずっーと宙ぶらりんな感じやった。けど啓ちゃんが会って直ぐに、「姉ちゃんによう似てるて言うたんや。私はこの人から生まれたんやて確信持つことで、地に足が着いた気がした」と言った。その時点で母親は愛媛に嫁いでいたそうだ。わざわざ会いに来たのだ。それからはお互い安心したのか遠慮があったのか解らないが会うことは無かったと言う。
 母親に会って暫くして叔母は見合い結婚した。三人の子供に恵まれ、子供達も独立し、夫に先立たれたが、今は一人で気楽な老後を過ごしている。
 今考えてみると、私はその時、叔母の人生の重大な一場面に関わったのだ。そういう事情を持った子供はその頃、沢山いたと思う。でもその一役を担えて良かった。悲しいだけでなく、私の中でほのぼのとした思い出になっている。