かわち野

かわち野第四集

亡き母への手土産

松本 恭子

 片付けたつもりのアイロンに蹴つまづき、間一髪で転倒をまぬがれた事があった。
 このとき、かなり前に朝刊のコラム欄で読んだ、家事評論家吉沢久子さんの、『老いじたく考』の一文が胸をよぎった。
〈老いは家の中でも事故を起こしかねない。勿体ないと物を積み上げていると危うい。早め早めに整理をし、身軽になっておきたい〉
 と、まさに自分のことを言い当てられたようで、つい先延ばしになっていた断捨離を急ごうと思った。
 秋めいてきて整理には頃あいの一日を、未練気に溜めこんだ洋服の処分から始めた。
 これまで、亡夫の背広も着用数回で古びてしまった私の外出着も、好きな洋裁でオリジナルの服に甦らせ、素敵よ、と褒められては得意になっていた。だが、体中が老い気力も失せては術もなく、思いきってゴミ袋に入れた。
 午後は、長年安易に買いこみ衣裳ケースいっぱいの服地の整理をした。利用できそうな端切れ、誰かに貰って頂けそうなものと選り分けていて、「あっ!」と息をのんだ。亡き母から預かったままの夏の服地がケースの底にひっそり納まっていた。ゆうに、三十年は過ぎている筈で胸が痛んだ。
 冬を和服で通した母は、夏になると、汗かきでまたひどい肩凝り症のため洋服を着た。八人の子供を産んでおんぶ(・・・)の続いた背中は、すっかり丸くなっていた。
 このような母の服を縫うために、いちだんと小さくなった体にメジャーを当て、採寸し割り出すと、頭が突きでたような体型の原型は、後身頃が長く、前身頃が短かいものになった。
 原型をひき伸ばしデザインした普段着は、服の中で身体が泳ぐほどのゆとりをもたせ、お洒落着には少し気をつかった。製図の段階で方々をつまんだり、ダーツをとったりして、くせ直しをした。こうして仕立て上った服を着た母は、姿見の前でくるりくるりと全身を映し、少女のような表情を浮かべ「着やすくてとても楽よ」と喜んでくれた。私もほっとし、母の笑顔が何よりだった。
 常々の生活が苦しく、母の日のプレゼントでさえ、服地は見切り品ばかりだったこともあり、昭和五十三年の夏のある日、母を布地屋に誘い好みのものを選んでもらった。
 どれもこれも素敵で目移りを楽しんでいた母は、薄紫色で上質の綿ローンの布地を「これがいいわ」と決めた。織り柄が小花のようで肩にかけてみせる八十歳の小柄な母に、よく似合い品よく見えた。
 さっそくと思いつつも、この年の十一月には娘の結婚式を控えていて、夏から秋にかけては多忙を極め、どうしても期待に応えられなかった。
「来年の夏は、一番先に縫ってあげるね」
「きっとよ、必ずよ」と指切りげんまんのように固く約束を交し服地を預かった。
 しかし、母は来年どころか、孫の結婚式までの一月(ひとつき)足らずも待たず、心臓発作でこの世を去った。駆けつけたときはまだ躰は温かく、母の部屋の鴨居には衣裳掛けに通した留袖が吊ってあった。
 遠い日がまるで昨日のようで、ふと思い出し、型紙を入れてある箱をとり出し中を覗いてみた。二歳、三歳、五歳と小さな原型は子供たちの成長につれたもので、巾広は姉、Mは標準の私。それぞれの型紙に混じり、母の名の『かね原型』があった。
 ためしに、前後身頃の肩をつき合せウエスト線を揃えて床の上に立たせてみると、背中の丸い姿になった。目を閉じ、ふくよかだった母を思い浮かべると、元気に動きまわっていた。
「ごめんね。楽しみにしてたでしょう」
「いいのよ、あなたが縫って着たらいいわ」
おだやかなもの言いと、記憶にある声音が聞こえたようで恋しかった。
 膝の上の服地を撫でながら暫く思案に耽っていて、「そうだ!」とひらめいた。いずれくる私があの世に旅立つ日。これは亡母への手土産にしよう、と。とっさの思いつきで気持が晴れた。さっそく子供たちへ言い伝えをしたため、手土産を空き箱に納めた。
 母の好きなコスモスが咲きゆれて、秋は来ては去り数年がたった。身辺整理も続行中で、孫や曽孫の写真などあちらへ持ってゆくものが増えつづけ、空き箱が膨らんできた。