かわち野

かわち野第二集

いもうと『道子』

黒江 良子

 今期は文章の基礎を勉強しつつ、早くから作品作りにも取り組みました。全員で作品の読み合わせをし、感想を述べ合い、それに基づいて書き直しをする。受講生の皆さんにとっては、骨の折れる作業だったと思います。
 そんな苦労の甲斐があって、昨年よりぐっとレベルアップした作品が何編も出来上がりました。今回はその作品の中から、作者自身が厳選した一編を掲載しています。その分、読み応えのあるエッセイ集に仕上がりました。
 各作品に現れた作者の人柄を存分にお楽しみください。
 「姉ちゃん!待ってえ」バス停に向かう私の背後から妹が追っ掛けて来た。そこへバスが来て私は急いで乗った。バスの窓から妹を見ると、顔を紅くしてふくれっ面で肩で息をしながら、手を小さく振って立っていた。
 私が二十歳の頃の事、妹のピンクのツーピースを黙って拝借してフェステイバルホールのコンサートへ行こうとしていた。バス停に向かう途中で妹に見つかったのである。妹のスーツを着ている間、汚さないようにと神経を使っていたのか、コンサートの内容や終了後の喫茶店で何を飲んだか記憶が飛んでいる。
 小さい頃、妹と私はいつもお揃いで、ジーンズの繋ぎのズボンをはじめ、元旦に目を覚ますとお揃いのセーターと新しい下着が枕元に置いてあった。大きくなってそれぞれの服を自分で選ぶようになった。なぜか、妹がセンスの良いように思えてその時は声をかけずに借りたのである。帰ってから「ごめん、ごめん」と平謝りに謝ったのは言うまでもない。
 私達五人兄弟の中で女二人。妹は四歳下。小さい頃の妹はふっくらとしていて、色白でくりくりした目、小さな口元、黒い髪、市間人形みたいやね、と言われ従兄達からは「みい」「みい」と呼ばれ可愛がられていた。妹はよく風邪を引き熱を出して、父の胡座をかいた上で紅い顔をしてちょこんと座っていた。
 私が何処かへ行くとすぐ後を追って来た。時には、疎ましく思いそっと出掛けようとするとすぐ見つかってしまう。友達の家へ遊びに行った時、妹が昼寝をしたくなると、友達は心得たもので座布団を二枚並べて「道子ちゃんお昼寝」と言ってくれた。その上ですやすやと寝ていた。
私が小学三年の時、お昼休みに同級生の和枝ちやんが「道子ちゃんが校門の所へ来てるよ」「え!」と言って校門の所へ駆けて行くと、いつも遊んでいる人形をおんぶして、私の顔を見ると、ニコッと笑ってそしてはにかんで立っていた。先生に話をして和枝ちゃんと一緒に連れて帰った。母が仕事を持っていたので妹は伯母に預けられていた。伯母は「庭で遊んでいると思っていたのに。一人で行ったらあかんよ」と妹を優しくたしなめた。「学校から帰ったら遊んであげるからね」と言うと「うん」とこっくり領いた。私は、学校に戻って午後の音楽の時間「みどりのそよ風の歌を歌った。七色畑に妹のつまみ菜その手が可愛いね
 かそのくだりになると、妹はどうしているかなと鼻の奥がツンとなり、五番まで本を顔の前に立てて歌えなかった。
 夏のある日、母が「今日は早く帰って盆踊りに行こうね。準備しておいてね」と出掛けた。私は早々に庭にたらいを出して水を張っておいた。夕方近くになると、その水が温かくなり妹に行水をさせた。キャッ!キャッ!と楽しそうに、温かくなった水を浴びてはしゃいでいた。行水から上げて、身体を拭いて天花粉を首の周りにつけ、鼻筋にスッと一筋入れて、浴衣を着せて出来上がり。そこへ母が帰って来て、夕食を済ませて盆踊りへ行った。
 夏休みに入り、お盆は、母の実家の京都へ毎年三人で出掛けた。母はお墓参りを済ませて食事を終えると大阪へ帰った。私と妹は残り、十六日の五山の送り火を、浴衣を着て従妹達と見に行くのである。夜、広い座敷に一つ布団を敷いて貰って床に就くと、決まって妹が顔を私の方に向けて聞くのである。「皆どうしているかなあ」「道子達はどうしているかなあ、ときっと話しているよ」と手を繋いで寝た。
 夏休みが終る頃、毎年宿題が終わっていない妹のを手伝うのである。「来年から早くしときね」「うん、わかった」と言いながら、横でうたた寝をしている。いつも母が
『明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは』
と私達五人の子供に言っていた。だが妹だけはどこ吹く風とばかりスヤスヤと寝息を立てている。朝起きると「いやあ!宿題が出来ている、嫡しい」その一言で私も嫡しくなるのである
ある時、妹が「姉ちゃん、みさちゃんが意地悪言うねん」と何度か私に訴えて来た。道でばったり会ったみさちゃんに「道子に意地悪したらあかんよ。私の居てへん時もお天道さんがちゃんと見てはるからね」と威圧的な言葉を投げかけた。今となっては妹も悪い所があったのでは、と申し訳ない気持ちでいる
妹は冬になるとすぐ電想焼けになり、手が腫れていた。妹が小学生になった寒い朝の登校時、手袋をはめた上から両手に息を吹きかけ、吹きかけしていた。「姉ちゃん手が冷たい」と言うので立ち止まって、私のセーターの首の所から手袋を取った妹の手を懐に入れてあげた。ドクッと冷たさが身体に伝わったが、妹は「温かーい」と目を細めてニコニコしている。そんな姿を見て、冷たさがかき消された。
とても寒い冬の夜、母と妹と三人でよく銭湯へ行った。綿入れのチャンチャンコを着て母を挟んで右側に妹が母と腕を組み、私は左側に組み、タオル、石験、着替え、洗面器を風呂敷に包んだ大きな荷物を左手に持って、お喋りしながら行った。私達の履く下駄がカランコロンと乾燥した冷たい空気の為か、高い透き通った音を立てていた。それを耳にしながら、後を振り向くと三つの影が寄り添って一塊のように付いて来る。月が汗え汗えと私達を照らしていた。銭湯に着くと下駄箱の番号の木札を取り、すりガラスに透明の湯と書いた引き戸を開けた。私が大きな荷物と一緒に無理に入ろうとすると、押し戻された様になり、妹が「姉ちゃん、あわてもん」とげらげら笑い、手から荷物を取ってくれた。帰りは三人共、身も心もぼかぼかとなり、下駄の音も心なしか温かい響きとなって耳に入って来る。そして、三つの影は程よい間隔でつい来た。
 妹が二十四歳の時、奈良出身の彼と標原神
宮で結婚式を挙げ、披露宴も終えて又、彼の家で宴会があった。私が廊下を歩いて通りすがりに台所を見ると、エプロンをした妹が居た。忙しく働く近所の人たちの邪魔にならないように、隅に行んでいる姿を見た時、胸のふさがる思いがした。
帰って実家に寄り玄関の戸を閉めた途端、私はワー!と号泣した。帯を解きながら母が飛んできて「どうしたの」「道子が台所でぼっねんとしていた。道子の居場所がない。可哀想や」「道子はこれから、これからよ」と母も目を真っ赤にしていた。「ごめん、おめでたい日に泣いたりして」「いいよ。これから愚痴や悩みを聞いてあげてね」と言った。
 そうこうしている内に妹に女の子、次に男の子が生まれた。
 月日が経ち妹に孫が出来た。その頃から妹が少し疫せ始めたのが気になり出した。家に寄った帰りに送ってくれる時、並んで歩いていると、妹からの生命の躍動感を感じる事が出来ない。嫌な予感がした。
 それから妹の健康を気にしながらも家族で遊びに来てくれたりして交流が続き一、二年が過ぎたある日、妹の主人から「救急で入院しました」と連絡があった。すぐ病院へ行き毎日毎日祈る思いで通った。十一日間の入院で妹は逝った。肺炎だった。五十六歳であった。
 私は、若過ぎる。どうして。と何処へこの怒りをぶつけたらいいのか解らなかった。肺炎だけなのに。これだけ医学が進歩している今日なのに。海の底へ沈められたような深い悲しみと喪失感。心ここに非ずの数日間が過ぎて、気持ちが落ち着いた時・・・妹は五十六歳まで生きてくれた・・と思おうと決めた。姉として、妹との五十六年間は、何にも代えがたい珠玉の日々だったのだ。今でも時々妹との一コマ、一コマを取り出しては想い出に浸っている。