かわち野

かわち野第六集

最後の登山 岩湧山

西村 雍子

 秋、ススキの綺麗な時期に是非一度登りたいと願っていた岩湧山。独りでは勇気がなく、一緒に行って貰えないかと、毎年友達を探していた。その年「行こう」と言ってくれる、親切な二人が現れた。ボランティア仲間の村上さんと福田さんである。村上さんは山歩きのベテラン、心強い同伴者だ。
 平成十六年十一月十七日(木)河内長野駅、滝畑行きバス停九時四分発のバスに、遅れないようにと約束が成立した。その日は秋晴れの登山日和である。二人はもう駅にいて私を待ち顔を見るなり、村上さんは私にこう言った。
「金剛山に変更しない」
「えぇ! 金剛山は二、三回行ったし……、ススキが見たいから岩湧山へ行こう」
 その時、なぜ変更を言い出したのか、問いただすこともせず私は、バス停へ急いでいた。
 バスの車窓から見る滝畑のダムの周りは秋の紅葉が素晴らしかった。膝に置いたリュックの中にはコンビニで買った弁当とおやつ、補充食(カロリーメイト)、タオル二枚。その一枚は背中の汗取り用に入れ、軍手、懐中電灯、雨具、水筒、携帯電話はポケットに入れた。
 バスは滝畑ダムバス停に到着した。トイレ横の階段を上がり、岩湧山に向かうくねくねした急な上りがつづくが、まだ序の口である。花ススキが風にそよぐ様をこの目にするまでは、頑張るのだと意気込んだ。しかし焦らず、慌てず、三人は高齢者である。お昼までに頂上に登りつけばいいのだから。ポケットの携帯が、鳴らない事を願いつつ歩を進めた。右手に見える山々が低くなり、当に自分が登っているのが確認できた。休み休みであるが三十分、いや、一時間は経ったころだったか、携帯電話が鳴った。主人からである。気にはなったが「大丈夫、行ってきいや」と言われた言葉を受けて出てきたのだ。
「調子おかしいわ」
「えぇ! 今、山の中やし、如何にもならへん、辛抱できないなら、お隣へ電話してぇ」
 どうしようもない仕方のない話、歩きながらの通話である。気にしながら携帯をポケットに直した。
 若い登山者の何人かに追い越されながら、杉林の中へ向かう。手入れの行き届いた林だ。木の根道も幾つか経て、空の見える開けた場所で、気になる家へ電話するが圏外で不通、連絡が取れない。連れの二人にも心配をかけ、登山の楽しさを半減させる。
 いよいよススキの山が目の前に現れる。急な木段を上がる。心臓破りの木の階段、何度も休み休み上がる。村上さんは慣れたもの、萱ネズミの巣やナンバンギセルを探しながら、ゆっくり登って到着。
 岩湧山の頂上、八九七・七メートル広場に到着。眼下に広がる素晴らしい大阪平野の眺望は、到達した者への褒美だ。またここのススキは、全国でも数少ないススキで、通称「女ススキ」と呼ばれ細く優しい萱であると言う。
 三人は昼食を済ませ、急ぎ下山の準備をする。秋の日は釣瓶落としで肌寒さも感じられ、速足で下りる。
 携帯電話で娘と話して、夫は大丈夫だと知る。
 ところが、今度は私の足に異変が起きた。途中、半分も行かないうちに、足の様子がおかしくなる。左足全体に力が入らず、無理に踏ん張ると痛む。下り坂を急ぎ過ぎた結果、肉離れが起きたようだ。初めての経験だった。少しずつ皆から遅れだした。気はせくが思うように進めない。左足を引きずりながら、なんとか二人が待ってくれている所まで到着。またまた心配をかけ、二人にとっては迷惑千万であろう。それにまた、谷側は危険だから山手を歩くようにと注意を受けたのに、つい左足の置き場が良いと置いた途端、踏ん張れず、道から三メートル転げ落ちた。慌てたが、二人に助け上げて貰う。ああ、なんと世話の焼ける自分なのか。
「ごめんなさい、ごめんね」。
 そうか。朝、二人はこんな私を予想して、「金剛山」に変更しよう、と考えていたのではないだろうか。
 肉離れの手当ても、村上さんに教えてもらって、親切な二人に感謝しつつ帰宅。本当に有難うございました。病身の主人に留守番をさせ、心配をかけ驚かせ、私の待望の登山は叶えられた。
 しかし、この思い出多い山登りが、生涯最後の登山となるだろう。八十歳が、直ぐそこに迫っているのだから。