かわち野

かわち野第七集

着付け

黒江 良子

「自分の長所を言って下さい」
「周囲の人と仲良く出来、協調性はあるのではと思います」K大附属病院で面接の時の私の受け答え。
 三十五年前、K大附属病院が大々的に定時職員を募集していると友人が誘ってくれた。週に三日勤務、子供も大きくなり、夫に相談すると子供や家事に支障がなければと許可を貰った。
 筆記試験は大講堂であり、その後は七名ずつ別室で面接があった。私の隣には清楚で美しい人が席に着いた。受け答えも慎ましやかで自分の持ち得ないところに惹かれた。
 面接が終り別れ際に「縁があったら又会いましょうね」と言葉を交わした。後に彼女は中央放射線科受付、私は医学部庶務課と決まった。
 それから一年後、彼女は偶然、私の住んでいる緑ヶ丘に引っ越して来た。彼女の娘さんのりえちゃんが私の教えている書道教室にやって来た。お母さんと面ざしが似ていて可愛い女の子で中学生になるまで続いた。
 数年が経ち、りえちゃんの成人式を迎える三ヶ月前、お母さんが見えた。「りえの成人式の着付けをお願いしたいんです。りえもして貰いたいと言っているのでお願いします」と言った。
「え~、私が! お正月の三が日に着物を着ているぐらいで振り袖の着付けをした事ないの」「お願い! お願いします」と言う。
 ひと呼吸おいてから
――いい機会を与えられたかもしれない。よし! やろう――と思い「それじゃ、一生懸命やってみるね」と言ってしまった。娘の一生でたった一回の成人式なのに頼む方も頼む方なら受ける方も受ける方である……。
 翌日、『成人式の着付けとヘアセット』という本を買って来た。早速、帯結びの練習をするために和室と縁側の間の柱に座布団二枚をぐるぐる巻きにして私の丸帯で練習し始めるとズルズルと座布団が下りて来る。今度はきつく縛っても下りて来る。
 悪戦苦闘をしている時、友達が来た。
 部屋に上がるなり柱を見て、「何してるの?」 「帯結びの練習。でもすぐ下りて来るの」と言うと口に手を当てて笑い出した。
「これってどこかで見たわ」
「相撲部屋では?」と私が聞くと
「そう、そう」と今度はお腹を抱えて涙を流しながら大笑いしている。
「お相撲さんが稽古に使う鉄砲柱よ」
 と私がおどけて柱に向かって左右の突っ張りをすると、彼女は身を捩じて笑い転げた。ひとしきり、笑って涙を拭き拭き、徐に身体を起こした。
 そして唐突に「そうだ、洋裁の時のボディがあるから持ってくるわ」と言った。
 翌日、腰のくびれたボディが我が家にお越しになり、くびれをバスタオルで補正し練習した。私は振り袖の帯はふくら雀に結ぶと思い込んでいた。結び方がようやく手に馴染んで来た頃、りえちゃんが我が家に来た。帯はふくら雀で結ぶねと言うと言いにくそうに「ほとんどの人がふくら雀なので何か他ので」と言ったので本を見せると京文庫がいいと言う。
 次の日から私は京文庫に向き合った。
 成人式の当日、私は五時に起きた。身支度を整えて家を出た。外は真っ暗と思いきや月明かりと満天の星の輝きに心が和んだ。一月の早朝なのに高揚していたのか寒さを感じない。緑の道(遊歩道)をりえちゃんの家へと歩いて行くと、外灯の光を受けて緑の合間に山茶花の赤が目に入って来る。
 家に着き、玄関ブザーをゆるく優しく押して、玄関でお母さんと小声で挨拶を交わした。
 既に、温められた和室にお化粧を済ませて襦袢と裾除けを付け、バスタオルを肩に掛けたりえちゃんが座っていて、にこやかに挨拶をした。
 髪をセットした後、着付けに入り衣紋の抜き加減を考えながら、紐を結ぶ時は「きつくない?」と聞きながら帯を結ぶ時は苦しくない様に帯の下の部分を締める様にした。ようやく出来上がった。
 少し離れて見て「きれい!」と思わず口から出た。あでやかで可愛いその姿に沸き上がる達成感があった。
 いつの間にか、猫のリュウも遠巻きにこちらをのぞいている。華美を好む娘に育てた事はないと、振袖を着る事にいい顔をしなかったらしいりえちゃんのお父さんも顔を見せられた。その時仄かに頬を緩められる姿に私は安堵した。
 家に帰って朝食の用意をした後、家事は余りはかどらなかった。ヘアセットは乱れてないかしら、着崩れはしていないかしら、と落ち着かない一日であった。
 夕方、りえちゃんとお母さんから電話があった。私が「りえちゃん、行く時と帰って来た時と同じ状態だった?」と訊ねると、「はい、ヘアセットも着付けも。ただ、髪を解くと次々に沢山のピンが出て来て、ちょっとびっくりしました」
「髪が乱れない様にとピンを沢山さしてしまったみたい。ごめんね。まるで『針供養』状態だったね」
「針供養って?」
「裁縫している人が折れた針を集めて、こんにゃくに刺して供養するの」と言うと、「私の頭はこんにゃく?」と笑いながらの明るい声に楽しい経験させて貰ったなあと思い、何とも得難い充実感を味わった。
 あれから二〇年、りえちゃんは三人の男の子のお母さんとなった。ご主人の美容室を手伝い多忙な中、着付けを習いに行っているという。