かわち野

かわち野第二集

介護が必要になっても

細見 杉代

 今、私は姑(九十五歳)の人生の足跡を辿っております。私もいつしか通る道ですから。
考えてみますと、私の小さい頃は、大家族で祖父母、父、母、叔父、伯母、姉、兄と共に暮らしておりました。近所地域で助け合い、当たり前のように老いや死を見て育ち、それは人の通る道だと簡単に考えておりました。
 しかし、そんなに簡単なものではないのだと近頃思うのです。そして、友人と会えば、ついつい自分達の老後のことを深刻に話し合うこの頃です。
過日、大阪府の介護支援専門協会研修委員の伊藤先生のご講演を拝聴してきました
 テーマは、「いつくるかわからない介護、この介護を受けずにすむには」でした。
 講演の概要をご紹介致しますと、介護は、する方もされる方も、出来れば避けたいところですが、それでも介護が必要になった時は、
先ず、介護を受ける側は、
一 出来れば自宅や地域での生活を心がける。
二 楽しく毎日よく笑い、よく話す。
三 よく動き「今日は○○が出来てよかった」と感動、感謝の気持ちを持つ。
四 安心して泣いたり、辛い気持ちも出せる場所を確保する。
 そして、介護する側は、
一 介護される人の気持を理解し、手となり足となる。
二 行動、意識はなくなっても、感情を持っている、だから接する時は、モナリザのごとく優しい微笑みを持って接する。こどもを見る様にいとしい気持を添える。
三 日頃から夢をもち、前向きに一日一日を過ごす。
ということでした。
また、「全ての人間に不可能を可能にする力がある」
と仰っていました。
さて、姑の介護に直面している私ですが、今姑は、介護施設に入っております。ヘルパーさんや、お医者さんも常駐し、あらゆる設備が完備され、快適な暮らしをしている姑を見ていて、ありがたいことだと感謝しつつ、私も見守る立場として、心身ともに疲れない様、たまには、息抜きも必要と痛感しております。
でもね、そんな日々を送っているなかで、姑の姿から 老いるということは、子供になってゆくことなんだなと、感じることがあるのです。
 だから・・ これからは、伊藤先生が仰るように、子供を見る様にいとしい気持ちで、共に日々過ごしていきたいと思っています。