かわち野

かわち野第七集

一葉の葉書

岩井 節子

 数年前、一枚の葉書が届いた。
「母が死んで 二年が経ちま した。私は教員をやめて大学院に進学しました。学位取得後に、又教員試験を受けようと思います。留学を夢見ていた母の分も頑張ります。今ごろ、 やっと少しずつ前へ進むことができています。励まし、本当にありがとうございました」としたためられ、島崎史子よりとあった。
学生時代の友人、倫子さんの娘さんからの葉書だった。住所は記されてなかったが、 カリフォル二ア大学の葉書だったので、彼女の留学先の見当はついた。
倫子さんが亡くなって何年も経った今でも、史子さんの大学受験のときの彼女の行動は、自分の死を察しての ことだったのかとふと思う時がある。
 倫子さんから、奈良女子大を受験する娘に付き添って奈良に行くから会いたい、と言う電話があり、 三十年振りの再会を果たした。史子さんの試験中に、史子さんが間借りするかも知れない下宿先も見ておいて欲しいと言われ、何件か見て回った。困ったときは何時でも、できる限りのことをする心づもりではあったが、その時何か違和感を感じた。だが、それも学生時代と全然変わって いな い彼女の容姿や、堂々とした歩き方、 にこやかな話し方が嬉しくて、娘を思う親心からと軽く考えていた。
 結局、史子さんは東京にある津田塾大学の 方を選んだので、又会う機会はないままに過ぎた。
 そして私が倫子さんの病気と死を知ったのは、史子さんが大学を卒業し、高校の教員として地元長崎に帰ってくると、倫子さんからの電話で聞いてから間もないお正月である。
  あれから何度か奈良に行っては、奈良女子大の前を歩き、彼女と一緒に行ったホテルで一人お茶を飲んだ。病気のこと分かっていたのに何で教えてくれなかったん。
 高校の教え子がサッカーの全国大会に出るとか、娘さんが地元で教員になるとか、電話であんなに嬉しそうに話してくれたのに……と心の中で話しかけながら。
「千の風になって」の歌のように、そこに行けば彼女と会えるような気がしていた。
 私がやっと、友の死のショックから立ち直りつつあった頃、史子さんからの葉書が届いたのだ。そして彼女の葉書に励まされた。
 史子さん、お葉書有り難う。お返事は出さないけれど、遠くからあなたの幸せを願っている人がいる事を忘れないでね。
 倫子さん、あの時会いに来てくれて有り難う。史子さんは良い娘さんに育っていますよ。