かわち野

かわち野第三集

小さな町のバス通り

黒江 良子

 昭和三十年から四十年頃、大阪南部の小さな町の想い出話である。その頃は、私にとって昭和の昭和らしい時期であった。
 バス通りを挟んで、古くて歴史のある楯原神社を中心に初詣、夏祭り、秋祭りと人々の営みがあった。
 バス通りに面している参道の入り口を真ん中に、向かって左側に下駄屋、和菓子屋、山中果物店があった。小道を挟んで又、左に林自転車店、提灯屋、鍛冶屋があった。
 参道入り口の右には乾物屋の『かっぱ屋』、森薬局、文房具屋の『まーやん』があった。
   ☆  ☆  ☆
 『まーやん』には、小学生の頃、鉛筆一本、消しゴム一個とよく買いに行った。電球も売っていて買いに行くと五十過ぎのおっちゃんが紙箱から電球を出し、柱につけているソケットに差し込んで点くか確かめて点くと元の紙箱に入れて「よっしゃ」と手渡してくれる。
 この店には、公衆電話が置いてあった。長じて、夫と交際の時期、銀行の寮によく電話をすることがあった。その時に一〇〇番通話をお願いして、相手の番号を交換台に伝えてもらい終わると料金を言ってくれる。
 寮に電話が通じると管理人さんが「黒江さんお電話です」とアナウンスの声が聞こえた。私はとてもじりじりと焦る思いがして早く受話器を取って欲しいと思ったものである。
 その頃、我が家の電話の設置の順番がなかなか回ってこなかった。そこで親戚の電話を借りると私の電話に一家で聞き耳を立てているように感じるので『まーやん』に行くのである。
『まーやん』にはランドセル姿の私と青春時代の私を店先にそっと残してきた気がする。
   ☆  ☆  ☆
 乾物屋の『かっぱ屋』へはよくお使いに行った。
「ようおこし」とちょっと小太りの七十近いであろうおばあちゃんが出て来るのである。いつも着物姿でニコニコとふくよかな笑顔である。襟の所に日本手ぬぐいを挟み割烹着を付けその上に分厚い前掛けをしている。その前掛けのお腹の所がいつもテカテカと黒光りしていた。
「何しまひょ」「ちりめんじゃこ一杯」と言うと一合升で浅い桶に山形に盛ってあるちりめんじゃこを量る。紙袋に入れる時、一つまみをおまけに足してくれる。
お釣りがあると、籠にゴム紐が付けてあって手を伸ばしお釣りを取る。
私の手の平にお釣りを乗せ私の手を包み込むように渡してくれる。
 帰りは「毎度おおきに。又お越し」と声が掛かる。
   ☆  ☆  ☆
 薬局へは母の歯痛の『今治水』をよく買いに行った。母は六人の子供を生んだ為か歯が弱くなっていたのだろう。薬局の引き戸を開けるとプーンと薬の匂いがしてちょっと緊張した。帰りに戸を閉めるとホッとしたものだ。
   ☆  ☆  ☆
 下駄屋は母の下駄の鼻緒をすえかえに行った。下駄を新聞紙に包みその上から風呂敷に包んで持って行った。下駄屋のおっちゃんは六十過ぎ位か、役者のような面だしで、男前にありがちな寡黙な人であった。店先の部屋で胡坐をかき、その上に前掛けを広げて下駄を置いた。
そして、注文した鼻緒をすえかえてくれるのである。口に小さな釘を含んで下駄の裏の鼻緒の結び目に飾り金具を打ち付けてくれた。私は子供心に釘が喉に行かないか心配したものである。待っている間、丸い木の椅子によじ登るように座って、足をぶらぶらさせた。
すると、メガネをずらしておっちゃんがチラッとこちらを見る。あわてて足を静かにする。
出来上がると、又新聞紙と風呂敷に包んでもらって帰るのである。
   ☆  ☆  ☆
 ある秋の夕方、そっと母が私を呼ぶ。
小さな声で「良子、果物屋へ行こう」とほかの兄弟に判らない様に声を掛ける。
 母は心斎橋で髪結いをしている。その日は早く帰って来たのである。母と手を繋ぎ「良子はよく手伝ってくれるからね」と時々手をキューと強く握ってくる。
 母の着物の樟脳の香りを嗅ぎながら・・・
 母の声を聴きながら・・・
 私の五感は全開する。
 そして、小躍りせんばかりに母を独占している幸せを感じながら果物屋へ向かうのである。今と違って、果物はリンゴ、みかん、梨、柿、バナナ等種類が少なく棚には果物の缶詰が並べてあった。桃の缶詰は風邪を引いて熱が出た時に開けてもらった嬉しい想い出がある。
 つるべ落としの秋の夕暮、果物屋に裸電球が早々と点けられていた。裸電球の光を受けて取り分け赤いリンゴは輝きを放っていた。
母が「どれがいいの。どれにする」と聞いてくれる。「リンゴ」と私は答えた。本当はバナナが欲しかったが高価なのでグッと我慢した。
帰りは又、母と手を繋ぎ家に入る時は、そっと私から入った。
 手繰り寄せる遠い日の想い出の中に、裸電球の光を受けたリンゴの紅がいまだ、心の中にポッと光を差し、母の手の温もりと共に胸を熱くする。
   ☆  ☆  ☆
 あの頃の日々の暮らしは、ゆったりと丁寧で温もりがあった気がする。