かわち野

かわち野第三集

マリアの泪

徳重 三恵

 三年前の十月中旬のことです。
 その日、わたしは缶ビール一本を小さなグラス二つに注ぎ、夫とささやかな乾杯をしました。肴は丹波の黒枝豆の塩茹でと、マグロの刺身です。
 乾杯の趣旨は二人の健康と、手造りワイン二回目の仕込みが無事に終了したことです。一回目は十月八日に30㎏を、ひき続き二回目も30㎏のベリーAという葡萄を使い、ワインの仕込みをしました。
 わたしがワインを造るようになって、早いもので十七年になります。
 最初は10㎏から始めたのですが、少しずつ量を増やし近ごろは60から70㎏までになってしまいました。なにぶんにもワイン造りはズブの素人。すべてが手造りですから一にも二にも体力が勝負なのです。
 簡単にわたし流のワイン造りの手順を言いますと、まず一番に禊をすることから始まるのです。冷たい水をざぶざぶ被り心身を清めるつもりで、顔と手足をしっかり洗います。  

そのあとは仕込み専用服に着替え新品の靴下を履きます。
 ワイン仕込み樽(ポリ製の漬物容器)と称しているなかに、葡萄の粒の傷みやカビがないかなど確認しながら少しずつ樽にいれて行きます。そして葡萄粒の上に分厚いナイロン袋を何重にも被せ、袋の中に両足を入れて立ち上がるのです。小さな樽のなかで足踏みするような感じで、ひと粒ずつ葡萄を踏みつぶします。一樽には15㎏が目安です。
 靴下は二枚重ねに履いていますが、それでも足裏に葡萄の一粒ずつがブシュブシュと割れるのが感じられます。私の経験では葡萄は、できる限り細かく丹念に潰すと果汁がたくさん出るのではないかと思い、いつも懸命に潰しているのです。
 しばらくするとナイロン袋から果汁がしみ込んで、足裏まで溢れてきます。どこかにしっかり掴まっていないとナイロン袋に足を入れたまま、つるりと転んで大怪我でもしてしまいそうです。
 いままで何度か専用の長靴でも履こうかと思ったこともあります。けれど、やはり足裏にこのヌルッとした感触を感じることで実感が湧き、いかにも手造りしているのだと、いまも足踏み方式で行っています。
 このようなやり方でワイン専用樽に仕込むのですが、少しずつ何度も繰り返すので根気が要ります。なれた手順と言っても30㎏、二樽を仕上げるには立ちっぱなしで、後片付けまでの時間を入れるとざっと六時間はかかります。
 いつものことですが、この一連の作業を終えると私は葡萄の匂いに酔って、熱いお風呂で足の先から頭の天辺まで洗い流さないと、食事も欲しくないほどの状態です。
 こうして造った60㎏の四樽は、私がひそかにワイナリーと呼んでいる階段下の小さなすき間に、大きなタオルケットを何重にも巻きつけ静かに眠らせます。
 この段階を一次醗酵というのですが、この時の温度を20℃前後に保つことがワインの生命に大きくかかわるのです。醗酵が始まると葡萄液自体が熱を帯び樽の温度が上昇するので、室温が30℃になろうものなら失敗するのです。
 この一次醗酵を一ヶ月、そのあと濾過をして二次醗酵に入るのですが、その段階でも温度管理を怠ると樽から果汁がブワッと一気に吹き溢れ、酢になったりします。
 この十七年間で二度失敗しました。そのときはこの温度の管理がいかに大事なのか知らなかったので、ひどいシヨックを受けました。なにしろ、手造りワインにかけた動力が、なにもかも徒労に終わったのですから。
 失敗とはどうなるのかと言いますと、試飲したときに「顔がゆがむ」のひと言です。
 ワインにならずビネガーになってしまったのです。
 大きな樽を持ち上げ、中の液をシンクから「ドクドクドグ」と惜しげもなく流しました。ワイン・ビネガーを使うようなハイカラ料理は滅多にしませんから、思いっきり捨てました。
 ワイン造りは趣味であり、出来たものは自分の作品です。それを「エイャ!」と捨てるときの気持ちは、陶器を窯から出したもので意に添わないものが焼きあがったら、叩き割るという陶芸作家と同じ心境だと思います。
 あくまでも趣味ですから、自分ひとりで造ることに決めています。ただひとつ夫に手伝ってもらうのは、先に予約を入れている葡萄園まで車で乗せて行ってくれるだけの役で十分なのです。
 わたしの奮闘振りを見ているだけでいいのです。ときどき夫は側に来て声をかけます。
「大変ですなぁ。風邪引かんようになぁ」
 それでいいのです。
 わたしと夫のどちらかが不調であれば、出来ない話なのですから。
 だから今回はささやかな乾杯だったのです。あとは醗酵が順調よく行き、ルビーのしずくのような甘口ワインが完成したときには、新ワインで先ずは夫と二人で乾杯が出来ることを願うばかりです。
 わたしは自分の造った葡萄酒に『マリアの泪』と言う名前を二年目につけたのですが、実に素晴らしいネーミングだと自画自賛しています。
 いまの調子でうまく熟成すれば、『マリアの泪』河内長野・ヌーボーはクリスマス頃になるでしょう。いまから楽しみです。
   ☆  ☆  ☆
 玄関の扉を開けると、もわっとした匂いが真っ先に私を出迎えます。
 毎年、十月、十一月のわが家は決まって、よく言えば甘酸っぱく、悪く言えば物の()えたような匂いが充満しています。まさに手造りしているワインが順調に醗酵している証でもあるのです。
 仕込み終えて十日ほど経つとサランラップを二重、三重に巻いて密閉しているはずなのに、ワイン樽と称しているポリ容器からは、まるで呼吸でもしているように匂いが漏れてきます。
 この匂いには重さがあるようです。
 下が濃く上になるほど薄い層になっているように思われます。ですから私が部屋を出入りすると匂いは攪拌されます。
 わたしが自家製ワインを造るようになったのは、たまたま散歩の途中で果樹園の前を通り、葡萄を買ったことが縁でした。
 そこの店主から、

「ワインを造るなら教えてあげるよ」と言われホイホイと乗ってしまったのです。その葡萄園では巨峰だけを育てていたこともあり、 最初のワインは10㎏の巨峰で造りました。
 この出来映えは期待以上のもので、巨峰の濃い紫の色はロゼ(バラ色をしたワイン)でした。
 気をよくした、わたしは少しずつ量を増やし、一人の弟子を持ちました。
 それは夫の同僚だった人の奥方Tさんです。その家に遊びに行ったときに手土産として自家製ワインを持参したのですが、Tさんが大層気に入り「来年は私にも教えて」と弟子入りを申し出でくれたのです。
 彼女の一作目は美しい色のワインができたので師匠としてほっとしました。翌年の二作目のとき、わたし自身のワインが失敗したのです。きれいな色の液体なのに試飲すると「顔がゆがむ」味で、大量のビネガーになってしまいました。
 Tさんのほうはどうなっているか気になり、「わたしは今回失敗しましたが、どうですか」と電話で出来映えを聞いて見ました。
「おかげさまで今年も美しい色のおいしいワインが出来て、主人もよろこんでいます」
 彼女の返答を聞き、伝授した先生としてはひと安心したのです。
 けれど、わたしの分がどうして失敗したのか、なにが悪かったか知りたくて、散歩の折に葡萄園の店主にもう一度聞きました。
「砂糖はどれくらい入れた?」
「教えてもらったように、葡萄の10%を」
「室温は30℃越えてないよね」
 よくよく考えれば、その年の秋はいつまでも残暑が厳しく、室温はたしかに30℃以上になっていました。原因は一概には言えないと思いますが、やはり温度管理に問題があったようです。 
 さて、その年の十月初旬に仕込んだ二樽が、一ヶ月を越しました。そろそろ二次醗酵の段階に来ています。
 一樽15㎏分を濾すのには半日以上はかかりますので、予定のない一日を選ばなければなりません。いろいろと試行錯誤をした結果、いまのところはコーヒーを濾すときのネルを六個、同時に使います。
 蓋を開けますと葡萄の皮が10㌢ほどの層となり、かさぶたとなってブカリと全体を覆っています。底には種と諸々の澱が溜まり、樽の中は三層になっているのです。まず、かさぶたをガバッと取り除き、上澄みをボールで掬い、用意していたネルで濾して行くのです。澱でネルが目詰まりを起すと、「マリアの泪」と名付けたワインの原液は泪のようにサラサラと流れ落ちません。
 わたしの趣味で始めたワイン造りなので、「夫に手伝ってよ!」などは申しません。
 テレビを見ながら夫はうとうと舟を漕いでいたのに、部屋中に充満しているワインのよい香りに目覚めたのでしょうか、わたしの側にやって来ます。
「今年の出来はどうですか。ちょっとだけ入れて下さい」
 夫がワイングラスを持ってきて、新酒の試飲を買って出るのも、恒例のことになっています。 
   ☆  ☆  ☆
――前略、先日は大変お世話になりました。お宅で味わったワインは、どこか覚えがあったのですが、あの時はどうしても思い出せなかったのです。家に帰ってから『そうだ、あれはポルトガルのサンディマンのポルトの味、香り、色などすべてが同じだった』と記憶がよみがえりました。特にあのルビー色は素晴らしいものです――
 十五年ほど前に夫の友人を食事に招き、わたしの手造りワインで乾杯したときの礼状の一部です。わたしはポルトガルのサンディマンなど、行ったこともありません。ましてやポルトの味と言われましても、これは想像外のことです。けれども、長年ヨーロッパで暮らした工学博士である彼が、嘘を言うとは思いません。単なる謝辞だと思いつつも、この礼状はわたしの宝物となっています。
 ハウス・ワインを造るようになり、そのワインに「マリアの泪」と名付けて、一人悦に行っているのも確かです。この「マリアの泪」というネーミングの由来を、いままでに多くの友人からたずねられました。わたしはそのたびに「いい名前でしょう。ハタと思いついたのよ」と言っているのですが……。
 ワインを造るようになった前年に、夫とイタリア旅行を楽しみました。フィレンチェからのスタートでローマ、ベネチュアと。ポンペイの遺跡をゆっくり観光したあと、昼食はそのすぐ近くのレストランでした。 いつものように添乗員が一人一人に、飲み物の注文を聞いてきます。ミネラル・ウォーターはビールよりも、ワインよりも高い値が付いているのです。わたしはアルコール類いっさいダメなので水を、夫は添乗員お奨めの白ワインを注文しました。
「うまい!」
 夫の感嘆符につられ、わたしもグラスに少しだけ入れてもらいました。これが実においしいのです。フルーティで爽やか。
 白いワインは下戸であるはずの喉に、スルスルと透き通るように吸い込まれました。陽気で太った店主がカンツォーネを歌いながら、私たちの側にやってきて言いました。
「シニョーラ(奥様)、これは世界でいちばん美味しい『キリストのなみだ』というワインだよ。買って行きなさい。他では売ってないよ」しきりに薦めるのです。
 でも旅は始まったばかり。まだまだ観光する予定もあり、白いワインを数本持ちながらの旅は出来ません。どこかにこれと同じものはある。そう確信して買わずにレストランを出たのですが、結局はどんなに探し回っても見当たらず、ついに『キリストのなみだ』は、まぼろしのワインとなったのです。
 そのような経緯もあり、畏れながら自宅で造ったルビー色のワインに『マリアの泪』と名付けました。
 あの楽しかった旅を忘れないために。
 二〇〇八年のワインの出来も、わたしなりには上出来です。以前はラベルも作って瓶に貼り、ラッピングなどをして楽しみました。
 また霧吹きにワインを入れて色紙や短冊に色づけし、白い絹をワインに漬け、パープル・カラーのスカーフなど自分だけの色を巻いていました。
 けれども、いまでは瓶もなかなか入手できずコルクも集まりません。最近はペットポトルに入れ、友人や、近所の人に貰っていただいています。ただひとつ自家製でなければ出来ない、お楽しみがあります。
 それはワインの一次工程で出来る少々濁ったものを、湯船にたっぷり入れて、「ワイン風呂」を楽しむのです。
 甘い香りに包まれて体を沈めていますと、手造りの苦労は忘れ、たちまち至福のひとときに変り、まるで女優の気分です。
 夫に葡萄園まで運転してもらったおかげで出来た、『マリアの泪』です。
 その年のボジョレーは十二月の吉日。
 まずは夫とグラスを合わせ、お互いの健康を祝し乾杯しました。
   ☆  ☆  ☆    
 二〇一二年、夫はパーキンソン病の診断をうけました。そしてわたしは、十七年間にわたり趣味としてはじめた自家制のワイン造りを止めました。
 夫は運転免許の更新を止めましたし、とても好きだった車の運転も出来なくなったのです。自家用車も家から消えました。
「葡萄園に行きたいのなら車出すよ。行ける日に連絡してくれたらいいよ」
 娘は言ってくれます。
 けれど、自分の趣味を他人の力を借りてまでするわけにはいかない、それがわたしの信条です。ちゃんと決めているのです。
 しかし、秋になると妙にそわそわしてきます。そろそろワインの樽を洗って置かないといけないのではないか、早く葡萄園にワイン用葡萄の予約をしておかなくては、などと。
 夫の体力は以前にくらべ落ちてきました。
でも食欲は変わらないし、美味しいものは、美味しくいただけます。わたしだって、まだまだ『マリアの泪』60㎏くらいなら造る体力と気力はあります。
 二年間の休養はしたものの、来年はもう一度やってもいいのではないだろうか、そんな気がして来ました。
 宝石のルビーよりも深い色の――
 まさにワイン・レッドそのものの――
 芳醇とは『マリアの泪』のために出来た言葉かも知れないと思うほどです。
 先日、二〇一五年の日記帳を買いました。
 十月の予定欄に、ワインの仕込みと書き込みますと、なんだか妙に元気というか、体力が満ちて来るのを感じたのです。
『マリアの泪』を待っている人は大勢います。
 一番は夫です。二番はわたしの友人たち。
 下戸のわたしは造る人。
 三位一体というのでしょうか。
 しかしつい先日、わたしの遣っているのが法に触れるということを知りました。果実酒ならいいがワインは駄目だということを。
 日記帳をひらく度に、夫の「法に触れるから止めてくれ」という声が聞こえてくるようになりました。
 こうして、わたしの『マリアの泪』はこの世から綺麗に姿を消すことになったのです。