かわち野

かわち野第五集

誰か故郷を想わざる

滝尾 鋭治

 ぼくにとって忘れられない小学生時代の恩師といえば北西先生だ。先生とはぼくが大阪府南部の、藤井寺小学校に入学した昭和十九年に出会った。そのころは戦時中で、生徒が規律を乱せば体罰は当たり前の時代だった。
 初めて、北西先生の恐さを瞼に焼きつけられたのは入学して間もない時のことだ。ある日の朝礼の時、北西先生が気を付け! と全校生徒に号令をかけた。一瞬校庭は静けさに包まれたが、六年の男子二人のはしゃいだ声が静けさを破った。
 たちまち、そこの二人前に出てこいと先生の怒声が校庭をゆるがした。今も耳に残っている程の大声だった。そして渋々前に進みでた二人に、貴様ら何しとると叫ぶや否や強烈なびんたが飛んだ。それは、校庭に倒れた二人が二度三度と転がる程の激しさであった。それからしばらくして、ぼくは北西先生は兵隊帰りの学校でいちばん恐れられている先生だということを知った。
 その後ぼく自身も、校庭の築山にあった楠公さんの銅像に上ろうとしている所を担任の女教師に見つかって往復びんたを見舞われた。それまで親に手をかけられたことのないぼくは納得がいかず、下校すると休日で家にいた父に不満をぶちまけた。父いわく、それはお前が悪い。先生が怒りはるのは当り前だ、と。
それ以来、ぼくはやんちゃをして先生に体罰を加えられても親に黙っていた。同じことで二回も怒られたくなかったからだ。
 やがて六年に進級し、北西先生が担任となった。えらい先生に当たったというのが第一印象だった。それでいて、気楽なぼくはまっさきに先生の不興を買った。始業のベルが鳴り、皆が着席したのにぼくはひとりの友とふざけあっていた。そこへ先生がやってきて、「お前ら始業ベルが鳴っとるのに何しとる。バケツに水いっぱい汲んできて廊下で一時間頭の上にもちあげて立っとれ!」と怒鳴られた。たちまち、一年生のころに目にした恐怖の場面が胸をよぎる。ぼくはおろおろする相手に声をかけ、教室の隅にあったバケツをもって水汲み場へ行った。
 そしてバケツに水を張りながら考えた。先生はいっぱいと言ったがそれでは重すぎる。だから半分位で水を止めた。ところが相手は正直な奴で、いっぱいにしようとしているのでやめさせた。
 教室に戻って廊下に立った。バケツを頭上にもちあげたが、五分と経たない内に腕が痛くなってきた。こんなことやってられるかと思ってぼくはバケツを廊下に置いた。相手もすぐに同じことをする。すると、誰かが見ていたのか教室から笑い声が起こった。ふりかえると、北西先生が恐い顔をして入り口に向かってきた。そして引戸を開け、頭の上にと言ったのにお前ら横着するな、と怒鳴った。
 それでぼくは勇気をふりしぼって言った。先生そんなこと言うけど重たいねん、と。一瞬、びんたを覚悟して身がまえた。すると意外にも先生はニタッと笑い、よっしゃもうええ教室に入れと言って、通りすぎるぼくの頭を拳固でぽこんと叩いた。子供心に、恐いけど面白い所もあるとぼくは思った。
 やがて学芸会があり、先生はこの曲なら小学生が歌ってもいいだろうと言って、『誰か故郷を想わざる』の歌詞とメロディを教えてくれた。
 花摘む野辺に陽は落ちて
  みんなで肩を組みながら
 歌をうたった帰り道
  幼ななじみのあの歌この歌
 ああ、誰か故郷を想わざる
 歌詞もメロディもとてもいい。その後ぼくたちは卒業したが、北西先生は生徒に体罰を加えてけがをさせ、そのことが問題化して母校を追われたと誰かに聞いた。
 二十歳になったころ、大阪学芸大学の学生だった親友がぼくの職場にやってきて言った。
北西先生が亡くなったので当時のクラスの者に声をかけたが、誰一人として葬式に参列しようという者がいない。君は行ってくれるだろうな、と。そんな彼も以前、休憩時間に教室の屋根裏を探検するといって上り、下りてきた所を先生に見つかってびんたを喰らった。
 ぼくは葬儀の日にうまく休日が重なったので参列することにした。二人して、近鉄古市駅に近い先生のお宅をたずねた。応対された奥さんに彼が事情を説明すると、大層よろこんで下さったことを今も鮮明に記憶している。多分、先生の年齢は五十位だったと思われる。
 その帰途、親友は電車の車中でぽつりともらした。北西先生は恐かったけど面白い所もあったな……と。『誰か故郷を想わざる』のメロディを口ずさむ度に、在りし日の北西先生が胸裏を去来する。
〈了〉