かわち野

かわち野第三集

遺 訓

滝尾 鋭治

 母は私が五歳の時に病死した。享年三十八歳。私達一家は、それまで大阪市内の天満に住んでいたが、十三(じゅうそう)の父方の祖母の家に預けられた。
 そして一年後、父は同じ職場の一回り年下の(ひと)と再婚した。時は昭和十八年の初夏で太平洋戦争の戦局は悪化し、大阪市が爆撃されると噂が流れていた。父は大鉄百貨店(現・あべの近鉄百貨店)でコックとして働いていたので、通勤の利便と疎開を兼ねて、一家は藤井寺へ引っ越した。
 しかしわずか二年の(えにし)で、継母(はは)は肋膜を患って一歳三ケ月の弟を遺して他界した。享年二十八歳。父は弟を広島の継母の実家に預け、小学二年生の私との暮らしが始まった。
 その頃は食糧不足で食堂は閉鎖され、父は河内天美の車輛工場で働いていた。それで、父は私の昼飯を作って出勤していたが、時には宿直や残業がある。そんな場合祖母が泊まりにくる事もあるが、ほとんどは近所の仲がよい同級生の塩木健夫君の家に泊めてもらった。又、残業の日は塩木家で夕飯を呼ばれ、父が迎えにくるまで時をすごしていた。
 やがて、終戦を迎えたが私は相変わらず塩木家の世話になり、まるで双子の兄弟のように健夫ちゃんと行動を共にしていた。その頃、藤井寺駅の近くに市場ができた。中央に通路があり、職種の異なる商店が十軒ほど向き合っていた。規模は小さいが初めての市場なので、大人にまじって子供も行き交い活気があった。もちろん、私たちも小遣いもないのに店屋をのぞきこむようにしてほっつき歩いた。
 そんなある日、私たちは学校帰りに午後は市場のおもちゃ屋へ行こうと意見が一致した。しばらく行かなかったので、新しい玩具が並んでいそうな気がしたからだ。帰宅すると、麦だらけの丼飯に朝食の残りの冷めたみそ汁をぶっかけてかきこんだ。
 健夫ちゃんを誘って市場についた。だが、飯時だからか客はまばらだった。入り口に近いおもちゃ屋をのぞくと、店の奥でおばあさんが気持ちよさそうに舟をこいでいた。私たちは顔を見合わせ、しばし眺めていたが目覚めそうにない。不意に、健夫ちゃんが私の腕をつかんで十歩ほど後ずさりした。そして、「鋭ちゃん、おばあちゃん居眠りしてるさかいおもちゃもって逃げよか」とささやいた。「そないしょうか」と私も小声で応えた。
 私たちはおばあさんに神経を集中して進み、とりやすい通路脇のおもちゃに狙いを絞った。そしてかっぱらうと一目散に逃走した。
「こらっ、悪さしよって。どこの子や!」
 背後で、八百屋の小父さんが叫んだ。が、追ってはこなかった。私たちはわが家に駆けこみ、たがいの物を見せ合ってしばらく遊んだ。しかしすぐに飽いてしまい、おやつのふかし芋が食べたくなった。それで、何食わぬ顔で塩木家へ行くと、玄関先で待ち構えていた小母さんが顔をひきつらせて怒鳴った。
「あんたら、市場で悪い事したやろ!」
「何もしてへんわい!」と、健夫ちゃんが盾突く。「そしたら鋭ちゃんはどないや」と、小母さんが鉾先を向けたので、「ぼくら何もしてへんで」と私も白を切った。
「二人共、嘘つかんとき! あんたらが市場でおもちゃかっぱらった事は分ってるのや」 「してへん言うたらしてへんわい! 俺腹へってるんや、芋あるんやろ――」
 末っ子で利かん気の健夫ちゃんが毒づく。
「嘘つくのもええかげんにしとき――」
 怒声と同時に小母さんの両手がのび、私たちは襟首を掴まれた。そして思い切り反動をつけてたがいの額を強打させられた。ごつん、と鈍くて大きな音がした。とたん、目からいくつも星が飛び、周囲がゆるゆると回転して私たちはその場にへたりこんだ。
「こらっ、あんたら男やろ! しゃんと立ってもう二度としませんと謝り――」
「おかあちゃん、もうせえへんかんにんや」
「小母ちゃんもうしません、かんにんして」
 私たちはよろけながら立ち上がって謝った。
「分ったら中に入っておやつ食べなさい」
 その夜、残業を終えた父が迎えにきた。小母さんは昼間の出来事や、嘘をついたので腹が立って鉢合わせさせた事も話し、反省してるのでもう怒らないでやってほしいと言った。
 帰宅すると父は居間に正座して私を呼んだ。恐る恐る座ると父は私の両肩に手を置き、じっと目を見つめて静かに口を開いた。
「鋭治、人間はなぁ、まじめが一番なんやで。分ったな、もう二度としたらあかんで……」
 そして、私の肩をぽんと叩いて微笑んだ。
 在りし日のお二人へ。あれからわずか四年後に、親父は結核を病んで天国へ旅立ちましたね。私はその後の人生辛酸を嘗めましたが、真面(まとも)に生きてこられたのはあの時に厳しく叱り、優しく諭されたお蔭と今も思い出す度に胸が熱くなります。有り難うございました。
(了)