かわち野

かわち野第六集

小さな命

松本 恭子

 「おばあちゃん、元気? 変わりない?」。
 東京に住む娘、郁世の長女で、孫の直子はこうしてときどき電話をくれる。けれど明るく弾む声の裏側を思うと、一抹の憂いを覚える。
 直子は三年前、欲しくてたまらなかった赤ちゃんを妊娠し、共に喜んだのもつかの間で、初期妊娠高血圧症を患い、胎児の発育がにぶった。胎児の肺が出来上がる三十二週まで絶対安静といわれ入院。しかし血圧がなかなか定まらず、脳溢血、脳梗塞をおこしかねないほど上昇して、止むなく帝王切開に踏みきった。
 二十六週で早産の赤ちゃんは、超未熟なたった二七九グラムの女の子だった。医師の両の手のひらにのせられて、案じながら待っていた直子の夫、一志さんの前を横ぎっていくとき、小さな小さなもみじのような手が見えて、迷わず『楓』と命名したのだという。
 術後、血圧が下がった直子は危機を脱し、ママを救ったとも言える楓は呼吸器を装着され、ガラスケースの保育器に入れられた。
 さかんに手足を動かし、必死に生きようとするようだったと郁世は声をつまらせた。直子からは、ちゃんと色のついた水っぽいウンチが出て感動したと聞かされ、どんなに未熟でも心臓が動き脈を打っている小さな命がいじらしく、いとおしさがつのった。
 楓は、動脈管開存症や開胸止血など、未熟児におこる色々な難関の手術を乗り越えて、六ヶ月がたち、体重が一二〇〇グラムになった。
 直子は「大きな目で可愛いの」と言いながら、私の上京を拒む。郁世は直子の心中をおしはかって、「あまりにも小さいのでお母さんのショックが怖いんでしょ」と言うが少し安心した。
 しかし、その安心はすぐ打ち消され、今度はお腹のしこりが肝芽腫の疑いと診断された。主治医からは、高リスクの手術を避け、暗に諦めようと言われた。僅かでも希望をもつ直子夫婦はそれに従わなかった。ネット検索で神奈川県立こども医療センター外科の北河医師を探しあて、ネット上のセカンドオピニオンをあおいだ。
 これまでの経緯とデータ、現在の症状など、一志さんがのせたメールを読み検討された所見は、やはり、未熟児の手術はリスクが高く、肝臓を傷つけた場合、出血が止まらず最悪、術中死もあるということだった。率直に答えていただいたけれど、一縷の期待をしただろうと思うと哀れだった。
 ところが、「妻も私も諦められないのです」と訴えた父親である一志さんのメールに、世界中を手術で駆けめぐる小児外科の権威で、高名な東京成育医療センターの笠原医師が呼応。楓が入院中の慈恵病院まで足を運んで、再診察、再検査をしてくださった。結果は肝芽腫の疑いが晴れ、まもなくしこりは消えた。
 経過を見届けるため、月に一度の割合で三回、楓を診て下さった笠原医師を胸に刻み、一志さんも直子も生涯忘れないと言う。
 しかし、呼吸器をつけたまま、一歳、二歳の誕生日を病院で迎え昼夜を問わずの異変。
 あるとき、「楓は産まれて来て良かったのだろうか」と直子に問われ、私は答えた。
「愛情を注がれ楓は幸せだと思うよ、世の中にはもっと深刻な……」
 すると、最後まで聞かず電話がプツンと切れた。
 空ろな慰めより「辛いでしょう」と気持に寄り添うべきだったと悔いた。身も心も疲れはてていたのだろう。それから音信がなく、私は一方的に手紙を出しつづけ、美味しいもの滋養のあるものを送り、時間はかかったが、祖母と孫の絆はごく自然に元に戻った。
 一時心臓が止まり、脳にいく血流のダメージから軽い発達障害のある楓。将来を思い、直子は去年、健康な男の子を産んだ。
「おばあちゃんは兄弟が多くて楽しそうだったから」
 そんな理由で、もうひとり三人目も産みたいという。
 ようやく呼吸器を外し退院できた楓は、パパとママと弟の稜太に囲まれ三歳の誕生日をお家で迎えられた。
 十一月の半ば、直子から弾む声で楓の七五三のお祝いをしたという電話があった。髪飾りをつけて赤い着物の楓。蝶ネクタイの稜太。着付けも写真もプロに頼んだのだそうだ。
「二人とも超可愛いの。写真送るね」
「当たりまえでしょ。美男美女夫婦のこどもだもの」
 調子を合わせながら、よろこびに満ちた「超」のひびきが耳元で何度もこだました。
 楓の体重は現在六五〇〇グラム、牛乳びんほどだった身長が七〇センチ。標準にほど遠く、一歳二ヶ月の稜太にどちらも抜かれたけれど、「ゆっくり育ってね」と、ひいおばあちゃんは祈る。
 例年になく庭の南天が赤い実をびっしりつけて輝いている。亥年の来年は吉兆到来と私は占った。