かわち野

かわち野第六集

デイホームでの出来事

鈴木 幸子

 十五年も前のことになるが、折りに触れて思いだすことがある。
 看護師を定年退職して二年ほど経った頃、住宅内に空き家を利用した小規模の認知症専門のデイホームができた。六、七人の利用者と、同じ数だけの職員がいた。母体は、少し離れた特別養護老人ホームである。
 私はここで、入浴前の血圧測定、服薬介助が主になる健康管理の仕事に就いた。
 高度成長期に山を切り崩してできたこの住宅の一番高いところにあるデイホームからは金剛山が望める。山の中腹あたりには楠正成ゆかりの千早城跡があり、正成が学んだ学問所がいまでも観心寺に残っている。この地域に昔から居を構えて住んでいる人たちは楠公さん、楠公さんと呼び慣らし南北朝時代の武将を身近に感じて暮らしている。
 朝の迎え、夕方の送りを受けて、ホームでは下は七十歳代から上は九十九歳の人達が介護者に見守られて昼間の一日をすごす。認知症の症状は軽い人がほとんどだが、二、三人は目が離せない人もいる。朝の迎えの車の音がすると、笑顔で職員が小走りで玄関に向かう。朝の挨拶をかわしているなか、平田さんは玄関には入らず、独り南向きのエンドウが植えてある畑にまわり家から持参した草取り鎌を手に座りこんでいる。
 二十分もすると、納得した様子で縁側に腰かけたので、私はおしぼりとお茶をもって行き、二人で雑草の抜き取られたきれいな畝に目を向けた。
 平田さんが、話し出すのを私はじっと待った。
 やがて、右手の人差し指で、ガーゼで覆っている気管切開あたりをふさいで話始めた。警察官の息子が車の免許証を返納せよとうるさくて困ると、話し出した。
「平田さん、八十四歳になったわね」と、私は答えた。「こんな山奥で、車がなかったらどこにも行くことができんのや。」と、ひとしきり愚痴って平田さんは入浴の準備を始めた。
 病院とは違って既往歴のカルテはない。詳しいことは分からない。平田さんは、気管切開はしているが声帯は残っているらしく、穴をふさぐと声が出る。入浴の時にはその気管孔から湯が入らぬように細心の注意が必要だ。
 無事に入浴を終え首にガーゼを垂らして、私の前に来てくれた。風呂の湯が入ることもなく本人が持参した消毒液で手当てをすることができた。
 平田さんは、自己管理が完璧だった。
 部屋の隅に置いてあるカセットテープからは、低い音で懐メロが流れている。
 私は、平田さんの頸部の手当てを終えて、ふうと、息を抜くとお味噌汁の良い香りがした。台所の方に顔を向けると、利用者で軽い痴呆がある良子さんの、可愛らしいエプロン姿が後ろ向きに見えた。
 ソロソロお昼かな。昼食前の薬のことが頭をよぎる。
 昼食、おやつタイムも終わり三時を少々過ぎたころ、歌の本が全員に配られた。
『憧れのハワイ航路』が、明るくて人気がある。
『里の秋』〝あぁ、父さんのあの笑顔〟
 これは戦争の歌だったのだ。戦地に行った父を思いやって母と子が無事を祈っている歌詞に、私はここにきて初めて気が付いた。
 一週間に一度だけホームを利用している平田さんは、フイリッピンが戦地だったと話し出した。
 入隊した現地では被弾して帰ってきた飛行機の修理が任務だったと言う。
 やがて、日本が負けだし戦友がバタバタ死んでゆく中、現地の人を襲っては、食べ物を奪いながら山の上へ上へと逃げて追い詰められていったという。現地の人の中にはいたいけない幼児も混じっていた。その時、見つめられた黒い顔の澄んだ大きい目に、夢の中で今も追っかけられるらしい。山の頂上まで逃げ延びた十名足らずの戦友と、ここが最期かと意識を失いかけたときアメリカさんが助けに来てくれたそうだ。
 平田さんは、アメリカと呼び捨てにしない。どのような話の時でもアメリカには、さんと敬語をつける。
 気管孔を押さえながら話す、老いた皺だらけの顔に涙があふれる。
 最後に、「青葉茂れる桜井の……」楠木正成の歌で終わった。
 事故やトラブルもなく一日が終わりに近づいた。ほっとした気持ちで顔をあげると、台所の小窓からは西日が差し込み、チリのような陽炎がゆらり、ゆらりと揺れていた。