かわち野

かわち野第九集

人生の末路

滝尾 鋭治

 人生、八十代の半ばになると、ふと、自分はどのような死に方をするのだろうと思う。
 先日、スーパーへ行く途中で以前に野菜を買っていた農家のお嫁さんと出会った。農作業をしていた舅が七年前に病死。その後姑が交通事故で歩行が困難となって介護施設に入居した。二人共、私と同じ年だった。
 私は姑のことを、手伝っていた彼女から聞いて知っていた。それで偶然出会った時には、「お義母さん元気にしてはるの」と消息をたずねていた。その日も同じ問いかけをすると、「お義母さん、今年の六月に食べ物が気道に入って肺炎で亡くなりはったんです。丸七年、よく食べて元気にされてたんですけど……。いつも気にかけて頂いてありがとうございました」と言って会釈をされた。

 私の父は昭和二十四年十一月二日、当時死の病として恐れられていた肺結核を発病して四十三歳の若さで他界した。その前日、「せめて鋭治が、高校出るまで生きてたかった」と言ってむせび泣いた。小学六年生の時に初めて目にした父の涙。そして、遺言となったその一言。あの日の情景は七十三年を経た今も、目と耳にこびりついて離れない。
 これまでの人生、父母を含めて十人余りの親族の葬儀に参列してきた。さらに友人の葬儀に参列したり、知人有名人の死への旅立ちを電話や葉書やテレビのニュースで知った。
 近鉄百貨店時代の親友三人も、いずれも年下だったがすでにこの世の人ではない。また、「大阪文学学校」時代に親しくなった五人も、賀状が届かない世界へと旅立って行った。その中の二人は私よりも五歳年下だった。
 年長者の一人、松浦さんは私より十五歳年上の人で、現在N・H・Kテレビで放映中の連続テレビ小説、「舞いあがれ!」の舞台となっている東大阪市で、産業用ロボットを造る工場を創設、永年社長の職にあった。
 しかし八十歳の時、経営を長男に任せて文学学校に入学した。さらに、学校に三百万円寄付し、二十歳未満の入学者に年間授業料十万円を無償にする「松浦基金」を設立。そして、高齢にもかかわらず自ら立候補して学生委員長にもなられた異色の人物だ。
 時が流れ、松浦さんが米寿に近づいた頃、
「このクラス全員を京都の先斗町へ連れて行って芸者呼んで散財しまっさかいに、皆さん期待して待っとっておくれやす」と仰った。
 担任の奥野先生を含めた、二十人が大いに盛りあがったのは言うまでもない。
 だが、その一ヶ月後、風邪で休んでいた松浦さんがわずか三日で帰らぬ旅へ出られた。
奥野先生の話では、松浦さんは独り暮らしなので娘さんが看病にきていたらしい。そして三日目の朝、「お父さんいつまで寝てるの。そろそろ起きてよ」と呼びかけたが返事がないので、体を揺すったら眠ったように安らかな顔で亡くなられていたそうだ。
 生前、「わしは医者嫌いでしてな。これまで一回も医者の世話になったことおまへんで」
 と、健康が自慢の人だった。
「理想の死に方やな。わしもそうなりたいな」
 と先生がしみじみと話す。
「誰しもが、そう願うのとちがいますか……」
 と私も同調した。
 五年前、親族の中で最年長だった叔母が九十歳で亡くなった。私は三十七歳の時に離婚し、小学六年と三年の娘を引きとって育てた。
だが、学校の行事はほとんどが日曜日か祭日だ。しかし百貨店の書き入れ時で休めない。そのような時、叔母は大阪市内からやってきて親代わりとなってくれた。また、春・夏・冬休みの時は親子三人を自宅に呼んで面倒を見てくれたりもした。
 晩年、叔父が心臓病で急死したので、静岡で開業医をしている息子を頼って大阪を離れた。従弟の話では、その後八十歳の頃から痴呆症になったらしい。
 六年前、叔母に懐いていた長女が、「お父さん、おばちゃん年だから元気な間に会いに行きたい。一緒に行こうよ」としきりに言うので二人で静岡へ行った。
 再会したものの、私が誰だか分らない。しかし、叔母の傍らに寄りそってその手を握りしめていた娘をしばし見つめながら、「この子、昔うちにようきてた子や」とぽつりともらした。その一言に長女嗚咽。
 それから三ヶ月後、平成29年1月11日午後11時11分叔母老衰で逝去。葬儀の後で従弟が「なあ鋭ちゃん、何事も一番が好きやったお母ちゃんらしい死に方やろ」と言った。
 確かに彼が言う通りだと思った。しかし私は数字にはこだわらない。松浦さんや叔母のように、眠ったように死ぬのが本望だが……。  〈 了 〉