かわち野第十集
日日是好日
徳重 三惠
私は目覚し時計を六時二十分にセットしている。実際には六時前に目は覚めているが、天気予報などをラジオで聴きながら、ほんのすこし蒲団の中で過ごしてからキッパリと起き上がる。
夏ならば、もうすっかり明るくなっているのだが、冬ならばまだまだ暗い。
蒲団を上げて真っ先に雨戸をあける。夜中に雨が降っていたらしい日もあれば、真冬には、まれにではあるが雪景色の日もあり、そんな朝は心が弾む。
顔を洗ったあと、前日から汲み置きをしている冷たい水をコップ一杯飲むことにしている。
お湯を沸かしながら、朝食の野菜を洗ったり新聞を取りに出たりと、ながらながらの間に沸き上がったお湯は魔法瓶に入れる。
それから仏壇を開け、折々の朝の景色を伝えつつ仏前で今日一日の自分の健康を、そして家族の平安をと仏さまに朝の挨拶をする。
わが家は浄土宗であり実家は天台宗で、子供の頃から仏壇のある生活に慣れ親しんできた。そんな続きのままの今だから、大まかに言えば、私の胸中のなかでは仏さまが一番上位にいる。
仏飯とお茶を供え、鈴を叩いてお線香を立て掌を合わせる。以前どこかで聞いた話だが、神仏に「願う」のはよくないらしい。
それを耳にしてからは、「今日一日、頑張ります。だから見ていて下さい」との想いを込めて拝むことに替えた。
私の中での仏さまは夫であり、父や母でもあるので順位は同等だ。しかし八人もいたきょうだいが今では二人きりになった私と妹のことは両親という仏に、そしてわが家の私も含めての家族、長男や娘のことは夫という仏に多くをゆだねている。
同等と思いつつも、ひそかに分担分けをしているのは、仏さまも気の入れようが違うかも知れないという配慮でもあるのだ。
ということで、私は夫と両親という三人の仏さまに守って頂いているのだと、密かなるお得感もある。
般若心経は読めるが、声を出して唱えたりしない。ただただ掌を合わせるだけで済ましている。なので「エエカゲン」だとあの世からのお叱りがあるかも知れない。
仏飯はたいがいはご飯だが、一人暮らしになってからは、自分の食べるものと一緒の場合が多い。
朝はパン食だから、仏飯もトーストした食パンを供える。他人さんに見せるわけでもないし、パン食がだめでもないだろう。そんな日の仏飯はちょっと、ハイカラさんだから茹で玉子を半分に切り、彩のきれいなサラダも一緒に添えている。
七時半前後には新聞を広げながら朝食を摂る。戦争のニュースなどは大きな見出しだけで済ませるが、テレビ欄は重要だ。見たいと思う番組にはマーカーで印をつけておく。
一日三食はほぼ決まった時間に食べ、三時のおやつは絶対に欠かすことはない。運動はしないで、食前食後には昼寝をたしなみ、猫の額ほどの庭には季節の花を植えて楽しむ。
今年の一月早々に八十二歳となり、特別に老いは感じないものの、物忘れと聴こえは悪くなった。
今の生活は月に三回の句会と、あと一回は俳句関連の仕事を携わっている。それと地元の気の置けない仲間たちと「綴り方教室」へ月に二回は出かけ、なるべく月に一作、2000文字ほどの作品を綴るように心がけている。それともう一つ、地元の人達に交じって謡曲を月に二回謡っている。
どれもみな楽しい時を過ごす。
禅語でいう日日是好日とは「今日という日は二度と来ないかけがえのない一日だから、その日その日を大切に」が趣旨のようだ。
近頃はしきりに、自分の一日はこれでいいのだろうかと不安を覚えることが多い。
老いの坂は上るのか下るのか。
夜、蒲団に入った時に「今日一日、楽しく過ごせました」と感謝して寝ることにしている。