かわち野

かわち野第十集

いと、うるわしい

黒江 良子

 近頃の気候は「三寒四温」と言う様な生易しいことではなく、その日は半袖のTシャツでも凌げたのに、翌日は雪がちらつきコートを着るという定まらない空模様に戸惑いを感じる。
 災害地の能登の人達はこの乱調気味の気象の中で、どのように対応しているか心が痛む。

 今日はやっとお日様が顔を出しベランダで洗濯物を干していると、ふと心がほぐれる思いがし温かい気持ちになった。
「くろちゃ❘ん」と、突然下から声がした。覗くと黒のダウンジャケット、黒いパンツ、お洒落なグレーのニットの帽子をかぶり、眼鏡、マスク、という出で立ちの背のすらっとした女性が手を振っている。
 誰だろうと思いめぐらしながら急いで門扉の所まで行った。
間近かで見てもわからず、誰かと目を凝らすと彼女はおもむろにマスクを取った。
「あ! 入江さん久し振り」
「くろちゃん、全然変わってないね」
「変わってない? 私昔からこんなちっこい目?」
 彼女は口に手を当てて、小さくクッ、クッと笑った。

 彼女は同じ緑ヶ丘南町に住んでいて、同時期に木彫りを習っていたことがあって、道で出会うと立ち話をする程度の付き合いであった。
 何時もおしゃれで背が高く特に髪の毛を長く背中の方に流して美しい。
私は彼女の髪を『短いおすべらかし(平安時代の女性の髪形で背中側に長く垂れ下げた髪)』と言っていた。
 歩くのもせかせかしたところがなく、上品さを感じさせるという人がいたり、少しあごを上げ、甘やかな声でゆっくりと話をするので、気後れするという人もいた。

 子供二人が小学生の頃、体調の悪い母が我が家に来ていた。
そんなある日、私は子供と母を置いて出掛け留守をしていた。
 用事を済ませ家に帰ってきて流しを見と、寿司桶に水を張って置かれている。
「どうしたの、このお寿司の桶は?」
「お母さんが注文してくれたのと違うの?」
「してないよ」
「え!」驚く私と子供達。
 ちょうどお昼時にお寿司屋さんから、握りずし三人分が配達されて、てっきり私が注文したものと勘違いし食べてしまったらしい。
 私はすぐ箸袋に書かれている電話番号に電話をした。
「私が留守中に注文していないお寿司が配達され、子供達が食べてしまいましたので、寿司桶を取りに来て下さる時にお支払いさせていただきます」
「いいえ、いいえ、こちらが間違って配達してしまいましたので結構です」
「それではあまり……」
 そんなやり取りがあったのを思い出した。本当の注文主は入江さんだった。苗字に同じ『江』が付くので我が家と間違えたらしい。
 後日、彼女と出会った時、過ぎた顛末の話をして、
「この間はご馳走様」
「いいえ、どういたしまして」と軽口をたたき合った。

 その後、出会うことがなく、彼女は数年前から病気がちになり、外へ出るのが少なくなったとか……。
 一度道で出会ったが、帽子を深くかぶり人を寄せ付けない雰囲気をまとっていて、さりげなくすれ違ったことがあった。
 その時以来、久し振りに散歩中わたしの家の前を通り、姿が見えたので「くろちゃん」と呼びかけたとの事であった。
 
束の間の立ち話であったが、別れ際彼女は「またね」と踵を返しゆっくり歩き始め、一度振り向いて曲がり角で手を上げた。
 帽子の下から見える髪の毛は、相変わらず美しく『おすべらかし』と言っていたのを思い出し、私は思わず呟いた。
「いと、うるわしい」