かわち野第11集
一万五千歩の旅
滝尾 鋭治
私は昭和二十六年五月、当時の大阪府下藤井寺町から徳島県南部の旧大野村へ引越した。中学二年に進級したばかりの頃だ。昭和二十四年に肺結核を患っていた父が他界し、その後生活に困窮した挙句の果ての夜逃げだった。
私が小学二年の時に母が病で亡くなり、翌年父が再婚した。徳島は継母の出身地だったが、すでに実家は没落して人手に渡り住む所がなかった。だから継母は村内の知人の家に私を預け、自身は隣り町にある旅館の住みこみ女中となった。
初めての土地、しかも見知らぬ他家に預けられた私は、日夜不安と寂しさで胸が張りさけそうな心地で過ごしていた。早死にしなければこんなことにはと父を恨み、その後に借金して飲み屋を始めて失敗しなければと継母への憤懣やるかたなき日々に明け暮れていた。
しかしそうした鬱々とした私の心情を徐々に前向きにしてくれたのが、集落に唯一人いた同じクラスの山口秋男だった。彼は農家の長男で四人の弟妹がいた。いかにも田舎育ちといった風情の朴訥な奴だが、性格は温和でやさしかった。
生活に必要な燃料はすべて薪だ。それで私は少しでも世話になっている家の役に立ちたいと思い、秋男に山へつれて行って柴刈りのやり方を教えてほしいと頼んだ。
彼の話によると、農業だけでは食べて行けないので農閑期になると、父親は林業の仕事に携わっているらしい。だから、どの辺りの山で樹木の伐採が行われたかをよく知っていた。秋男は畑以外に薪係もしていたので、父親の情報に基づいて奥山に入っていたからだ。
その恩恵に与ろうという訳だが、秋男はいともかんたんに了承してくれた。近くの山の場合、持ち主が生木の内に枝打ちして薪の部分を持ちかえってしまう。そうしないと近隣の人たちの標的にされるからだと言う。そのような事情で、火持ちがよい太い枝を入手するには奥山の伐採地に行く必要があった。
初日秋男はまず、鉈の使い方から手解きしてくれた。柄をしっかりと握り、左手に持つ枝の位置を目いっぱい先にのばす。さらにその角度。けがをしないための必須条件だ。
次いで両足を開いて踏んばり、「鋭ちゃん見とってよ」と言って振り下ろすと見事に太い枝の下半分が地面に転がった。そんなん俺にもできるでと思って振り下ろす。が、鉈は枝の中程に食いこんで動かない。引き抜こうとしたがだめなので秋男に渡す。見た目よりむずかしいことを知り、私は同い年の彼に兄のような敬愛の情を覚えた。
「まあ初めてじゃけんぼちぼちやっとれっちゃ。わしの分作り終えたら手伝いに来るけんけがだけはせんよう気いつけてのう」
と、言って近辺に良い枝の多い場所を譲り、彼はほかの場所へと移動した。
太陽が真上にきた頃、秋男は一荷四束分を作り終えて半分もできていない私を手伝ってくれた。それから一束分に必要な縄の長さや荷作りのしかた、さらに天平棒に前後二束づつ結えつける荷姿を指導してくれた。
その後、近くの小さな谷川の水で喉を潤して弁当を広げた。私は視野に秋男のおかずに厚焼卵が二切れあるのを捉えた。が、自分の弁当には入ってない。彼はちらっとこちらを見て黙って一切れくれた。大の好物だが卵は高価なので、父が患らってから一度も食べてない。その色と味、私は今も覚えている。
やがて帰途につき、秋男は荷の担ぎ方や重い荷を肩にしての急坂の下り方など、そのつど懇切に指導してくれた。
それ以外にも、田舎で生きる諸々の知恵を教えてくれた。特産の山モモの木のある場所や、珍種の白モモの木がある山へもつれて行ってくれた。そして他家に居てお八つにありつけない私に同情したのか、槙や桑や野草の熟した実が食べられることを己が先に口に入れて教えてくれた。また、松茸は下から上を眺めて探す術や秋祭りにも誘ってくれた。
その後私たちは中学校を卒業し、家計を助けるために就職の道を選んだ。秋男が先に徳島市内の薪炭商に住み込みで採用され、その得意先のパン屋が見習いを募集していることを教えてくれたお蔭で私もそこの住みこみとなって働き始めた。当時は就職難の時代だったから有がたかった。そして私が二十歳に帰阪するまで親交が続いたが、以後は交流が疎遠になっていった。私は書くことが好きで時折便りをしたが、逆に彼は苦手で一度も返事をよこさなかったからだ。
それから十七年後、唐突に近鉄百貨店阿部野橋店の私の職場に彼は電話をかけてきた。歳末商戦たけなわの時期だった。さらには二ケ月前に私は離婚し、二人の娘をひきとって育て始めたばかりだった。うれしい半面、余りにも急なことに驚いて電話に出た。
「おお! 鋭ちゃん久しぶりやのう。おまはんは筆まめじゃが、わしはあげなことが苦手でずぼらしてごめんな。電話したのは今年初めてじゃが、環状線の京橋駅のそばで注連縄を作って売りに来とるんよ。ほいで長いこと会うとらんけん顔が見たいんじゃ。仕事終わったらこっちまで来てくれんかの、どうじゃ」
と言う。こちらも久しぶりに声を聞いてうれしい、会いたい。積もる話を肴に痛飲したい。が、常に腹を空かせて帰りを待つ小学生の娘たちの姿が瞼をよぎる。さらに職場なので、周囲の耳が気になって事情が話せない。結局、私は繁忙期を理由にことわった。
「ほうかいや……。そら残念じゃのう。積もる話を、一杯やりもってしたかったんじゃ」
あの時のしょげた声音が、今も耳に残って離れない。
近年、頓に親友や同級生の訃報に接することが多い。現在どうにか元気な自分も、いつどうなるか判らない。その後ぶさたの秋男のことが気にかかる。あの世へ旅立つ前に一度会って、若かりし日に世話になった礼を一言いっておきたい。が、電話も住所も判らないので連絡のしようがない。ままよ行けばどうにかなるだろう。私は気持ちが高ぶり、猛暑日が続く八月に高速バスで徳島へ向かった。
やがて、牟岐線阿南駅に近いバス停で降りた。逃避行の時はバスに乗り、村の中心地で下車した。同じコースを辿りたかったが時間のつごうもあってタクシーを利用する。が、直接集落へ乗り入れるのではなく、昔の感慨にひたりながら歩こうと決めていた。事情を運転手に話すと「旧道の下大野バス停辺りですね」と言った。新道ができたのか、と思う。当時の道幅は、小型のバスが徐行しながら往き交っていた。注意を喚起する赤い布切れが、何ケ所もの軒先にぶらさがっていたことを想いだす。やがて、「この辺ですけん」と運転手が言って車を停めた。ちょうど二千円はらって降り立ったが、何だか見知らぬ土地へ来たようだ。少し歩いて小さな四つ角にでると、彼方の山並がよく来たと言わんばかりに変わらぬ姿で迎えてくれた。一挙に心が和む。
あの日、俺は不安に苛まれながらこの道を、と思うと胸が熱くなる。しかし歩けど歩けど山との距離は縮まらない。下校の時には彼と共に互いに好きな女子の話で盛り上がり、いっこうに気にならなかった道程だが。齢八十二、六十八年の時の流れを痛感する。
二十分ほどして見覚えのある小川のほとりにでた。小さな橋を渡り、稲穂がでそろった何枚かの田を横切って山裾にへばりつく集落に到着。あの頃は荷車しか通れなかった道が、車が通れるように広くなり舗装されていた。昔は歩けば誰彼に出合った道だが、まったく人通りがない。それも道理で、軒数が以前の半分もない。新道沿いには大きな和菓子店などが軒を並べていたのに。気落ちしながらも集落の奥の秋男の家をめざす。が、そこには以前の離れのような小さな家が建っていた。昔は秋男の家だけが瓦葺きでいちばん大きかったのだが……。しかしまちがいなくここの土地だ。苗字を確かめようとしたが表札がない。あの頃もそんな家がほとんどだったことを思い出して引き戸をノックする。が、反応がない。留守なのか? と思って戸を引くと開いた。玄関に赤っぽい女物の靴が一足そろえて置いてある。家の規模から判断し、女の独り暮しかと思いつつすみませんと声をかけるがやはり返事がない。「こん村に泥棒なんか居るかいね」と、昔世話になった小母さんの言葉が蘇る。そうだ、あそこへ行ってみようと思って移動したが更地になっていた。
よし、こうなったらすべての家をめぐってみよう、さすれば何かが判るだろう。私は気を取り直して八軒の家を順次訪れたがどの家も留守だった。最初の家の人がもしや帰宅したかも。私はあきらめきれずに集落を三周したがむだだった。落胆の身に容赦なく猛暑日の陽光が降り注ぐ。確か、徳島の最高気温は三十七度の予報だった。ペットボトルにわずかに残った水を飲むが渇きは癒やされない。「おい秋ちゃん、今どこにおるんや。あの時のことまだ怒ってるんか。もう堪忍してでてきてくれよ。頼むよって、会いたいのや……」
一気に疲れが噴き出し、私は秋男の生家跡にへたりこんで裏山に向かって愚痴った。
大阪行きのバスの窓外を眺めながらも、心は秋男のことが離れない。事故か病気でどこかの施設に。否、もしかして。何を縁起でもないことを、と自分を叱る。やはりあの時に会っていれば。多分、都会の人間は水臭いと見限られたのだ。絶対そんなことはない、行きたかったが行けなかっただけなのに。ほんとやで秋ちゃん、と又もや愚痴った。とにかく、己が鈍色人生の縮図のような旅だった。仕方がない、来年気候のよい時に出直すとしよう。
帰宅して歩数計のボタンを押すと、一万五千三百七十五と数字が表示された。
〈了〉