かわち野第三集
夜の魚獲り
山田 清
夏風は、土の匂いと緑の香りを一杯に含んでいた。
大きく育った稲を撫でながら、開けっ放しの縁側から裏口へと、家の中を通り過ぎて行く。近くを流れる川で、目一杯泳ぎ遊んだ身体に、昼寝は心地よかった。
それは、小学校六年ごろから始まった。
私達が夏休みを待ち望んでいたように、親父も私の夏休みを待っていた。
「おーい 石灰(カーバイトのこと)を買ってきてくれ…」。理由など言わないで、いきなりのいいつけだった。いやな予感はするが、預かった小銭をポケットにねじこみ、隣の集落にある鍛冶屋さんまで自転車を漕ぐ。三個ほどの白くて硬く、大きさのわりには重い石を新聞紙に包んでもらった。石灰石は、水を注ぐと高熱を帯び、匂いのするガスを発生させる。火をつけると直視できないほどの輝きを放ち、まわりを明るく照らす。ランプには、光の反射板もついていた。
「今夜、魚獲りに行くぞ」。やはりいやな予感ほど、よく当たる。
相棒がみつからないとき、あるいは漁獲に確信がないとき、きまって私に指名がきた。ランプを左手に持ち、腰には漁業組合の鑑札をつけた竹製のビク、右手には竹の先に鉄筋をつけた杖のようなものを持たされる。川苔のついた石はよく滑るため、滑り止めにするための自家製のトンボ草履(藁で編んだ、少し小さい簡単なもの)を履かされる。子供の足に、藁はチクチクと痛い。
川原に着くと、腰上まで伸びた夏草を分けながら、流れのある場所を目指す。
冬の間、よなべ仕事で作った自慢の網を肩にかつぎ、大股で歩く親父に遅れまいと急ぐ。中流域の石は丸く、足が滑り足首をひねる。闇の中のランプの灯りに集まる虫や蛾も一緒に連れていった。
しじまの中に、サラサラと流れの音が聞こえる。
やっと、親父のその日の狙いの場所に着いたようだ。肩から網を降ろして、網の方向を確かめ、川岸を移動する。私は、川下の方向にランプを向けて、上流に網を張り終える親父の合図を待つ。夜の川の瀬を、静かに横切る気配がすると「よーし いいぞ」と声がかかる。流れの方向にランプの向きをかえ、さらに左右に大きく振り、鉄筋のついている杖で川石を突く、眠りについているアユを光と音で驚かせるのだ。応援のため流れを下ってきた親父と、懸命に網へと追い立てる。
網にかかったアユをびくに取り込む。たくさん獲れるとうれしいのだが、腰は重くなり、川石の上をさらに歩きにくくもする。
ウグイがいた、カワムツ、カニ、ウナギやアマゴなどもいたが、アユ以外はリリースだった。親父の「帰ろうか」という声がかかるまで、親と子のランプは夜の川原を繰り返しながら、繰り返しながら上流へと進んだ。魚獲りの中でときおり見せる、親父のやさしさを、こども心に感じた時でもあった。
冷たい水でほてり、疲れ切った両足がだるくてしかたがないのだけれど、翌朝は、夏休みのラジオ体操。出席表を手に持ち村落の神社の境内まで、一直線に走る。冷蔵庫などない時代、ラジオ体操を終えると、獲れたアユを親戚や隣近所への配達に走った。それが済むと、やっと魚獲りが終わる。
いやだった夜の魚獲りが、たまらなく懐かしい。
故里を離れてから、祭りの夜店で見かけたあのランプ。今ではあの懐かしい匂いさえ、嗅ぐこともない
「親父、天国の川原にもアユはいるんか? 網は、幾筋できたんや?」
「もう一度、連れていってくれ」