かわち野

かわち野第二集

家庭内台風

坂下 啓子

 私が物心ついてから年に二~三回、祖父と父の大喧嘩があった。いつもはお互い無視して暮らしているのだが何かの拍子に押さえている鬱憤が爆発して凄いことになる。母や家にいる職人さんも(祖父が板金店を営んでいた)止めに入るが、押さえが利かない。私と弟は恐くて泣いてばかりいた。最後は祖父が家を出て一週間は帰らない。その間父はすごく機嫌が良い。私は祖父の部屋を覗いても空なので凄く情けない気になる。映画や芝居に連れて貰えないし外食もない。
 外食で思い出すのは、大概、四条大宮にあったスター食堂か西大路七条の「うな富」が定番であった。スター食堂のアイスクリームは銀皿にピンポンのような形にウエハウスが乗って、そのあっさりした微妙な美味しさを忘れられない。でも今は二軒の店共に失くなってしまった。
 隣の小父さんは都ホテルのコックさんをしておられたので、たまに祖父にはフランス料理も食べに連れて行って貰った。ある日には大阪のジャンジャン横町で酔っ払いがたむろしている様な店にも行った。「おなごの子はどんな所にお嫁に行くかわからへんしなあ。そやから啓ちゃん、どんな高級な店でも、どんな場末の店でも堂々として食べなあかんでー」と私に教えた。学生時代友人と旅行をした時、下町の食堂で、作り置きのおかずをガラスケースから出して食べるのを友人は嫌がっていたが、私は美味しく頂いた。祖父のお陰で有り難い。山小屋での雑魚寝も大丈夫。
 さて、家庭内台風に戻るが、何年かそういう生活が続いて、突然祖父が再婚すると言い出した。父は外で遊ぶのは黙認したが結婚には反対した。ついに、私達家族四人が別居する事になり、長岡京市に移り住む事になった。引っ越しの時も祖父は家に居らず、近所の人達にだけ見送られて。
 当時は乙訓郡と呼ばれたかなりの田舎であった。寒風が吹き付ける季節で都落ちをする様な気分になった。やはり京都市内が懐かしい。廻りに家がチラホラしか建ってないし、駅まで十五分も歩かないといけない。
 私は京都市内の私学に通っていたので、父を恨んだ。弟は元気に地元の小学校に通った。
 母も持ち前の明るさで近隣に馴染み、仕事も紹介してもらって頑張っていた。私一人が学校も家も面白くなくなり、高校生になった頃には性格もすっかり暗くなっていた。時折り、学校の帰り、祖父が駅で待っており、途中の四条で下車し食事に連れてもらってから帰ったりした。私が落ち込んでいるのをすごく心配していたと思う。
 私達が家を出て、十年ほど経った頃、祖父も女の人と別れ家も処分して又同居する事になった。それからの祖父は少し可哀そうで、脳梗塞のため半身不随になり父に遠慮するようになった。しかし、それから、さすが昔取った杵柄は大した物で、「老人の家」、今にいうデイサービスに通い出すと、遊び人は本領発揮し人気者になり、お婆あさん達に持てて三角関係になったりもして大変だったらしい。父はよく「あいっは焼かな治らん」と言ってた。
 私は、何となく祖父の風貌が往時の森繁久弥さんに似ている気がする。顔ではない、雰囲気というか、半分ふざけた様な、惚けた様な、生真面目に取り組む人には「それがなんぼのもんじゃ」と、斜に構えている人生の機微や男女の事情に精通している人の風貌ではないか。
 祖父の葬儀の時、「すい な人どしたなあ」と言われた。
 私も「すい な人」を目指したいがかなり遊ばないといけないので無理かな。