かわち野第五集
我が家の「ひよっこ」達
岩井 節子
この夏、久しぶりに我が家の軒先で燕の巣立ちを見ることが出来た。以前、せっかく育っていた雛達が蛇に襲われて以来十数年ぶりである。
毎日何回も、そーっと玄関の戸を開けては雛たちの様子を見る日々。戸を開けるとパッと顔を引っ込める雛もいれば、私が見ている間中つぶらな瞳で見つめてくれる雛もいる。
8月に入ってから、少しずつ巣を離れて飛ぶ練習を始めている様子が見えた。お盆過ぎのある日、外出先から帰って来ると、朝取り替えた新聞に糞が少しも落ちていなかった。巣に雛たちの姿もない。これこそ『立つ鳥跡を濁さず』という事かなと感心しつつも少し淋しく感じていた。
翌日の夕方、にぎやかな囀りに電線を見上げると、6羽の燕が止まっている。
「あれはうちの燕たちだ」
と思ってみていると、6羽はそれぞれ、飛べることが嬉しくてたまらないというように輪を描きながら飛び始め、中の1羽はわざわざ玄関の軒先を潜って飛んでみせる。じっと見つめていた雛が、「僕たちですよ」と教えてくれて、皆でお別れに来てくれたような気がした。それから2~3日は夕方に元気な姿を見せていたが、一週間もするとすっかり姿を見せなくなった。
もう南方へ渡ってしまったのだろうかと気になって調べてみると、彼らはしばらく森などで集団生活をした後、温かい南国へと旅立つらしい。
彼らの平均寿命は1年半。長寿のものは10年も生きるらしいのだが、長旅の間には、大型の鳥に食べられたり、天候の変化についていけなかったりして短命に終わるものが多いという。
あんなに嬉しそうに飛んでいたのにと切ない思いをしていた時、あるコラムの文章が目に止まった。
『生きとし生けるものがその一生の終わりを迎える時、私たちはその最後を自然の営みとして受け取ります』
1960年代『沈黙の春』などの著書で、農薬の危険性を訴え、環境問題に警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソンが、晩年、病床で友人に送った手紙の一節である。
飛べることの喜びを全身で表していた「ひよっこ」達は、生ある限り、その一生を精一杯生き切るであろう。あの弾むような嬉しさの表現を私たちの心に残したまま。
憐れむ必要はない。
むしろ、憐れむべきは、幾多の煩悩で中途半端に生きている私たち人間の方だという気がしてきた。
がんばれ、ひよっこ達。