かわち野

かわち野第五集

多くを学んで

松本 恭子

 文章教室『アイ・マイ・ミー』の午後の部は月に二回、公民館で和気あいあいで学んでいる。
 代表の重里睦子先生、数田加代子先生のもとで、男性が山田さん、津田さん、滝尾さん。女性は黒江さん、徳重さん、坂下さん、岩井さん、西村さんと私。六十代から八十代後半までの生徒九名は年齢の差を忘れて打ちとけ、エッセイ、童話、掌小説と個性的な作品を読み合わせ、異なる批評、指摘が身になって刺激しあう。
 こうして久しいなか、津田さんが初めての課外授業を提案し、即座にみんなが賛同して詳細を話し合った。行く先はその年、テレビで放送中だった大河ドラマ『真田丸』に合わせ、少し先の紅葉も期待して、南海高野線の〝九度山〟へ、十一月九日と決まった。
 早速、山田さんが人数分の資料を用意してくれた。その日のための写真つき昼食メニューまで見ながら打ち合わせから盛り上った。
 西村さんは家族旅行と重なり欠席との事。間もなく米寿の私は体力不安を口にし直前まで迷っていた。
 いよいよの九日前夜だった。「明日は寒いそうですよ。厚めのコートが良いようですね」と、岩井さんから電話を頂いた。さりげない優しさがうれしくて迷いが消えた。当日は使い捨てカイロを貼り、万全の防寒対策をし、歩くため両手を空け、リュックを背負い出かけた。
 九度山は急勾配の坂道が多く、車椅子の津田さんを介添えする北池さんに仲間たちは手を貸した。ヨイショ、ヨイショ、のかけ声も愉しげで微笑ましい光景を、徳重さんは〈車椅子 押す人を押し 秋うらら〉と詠まれた。下り坂は車輪が走り過ぎないように反対向きになり、くい止めるようにおろしていて、見ていても力が入った。怖かったと言う津田さんは気を使い身を固くしていたようだ。
 伝説の抜け穴は雑草に覆われていた真田古墳。殺風景な庭にさびれた古井戸の真田庵は蟄居の日々を偲ばせた。見学のあと楽しみの食事処は長蛇の列で諦め、道の駅で思い思いのお弁当を買い、陽ざしのある広場で大きな輪になり昼食となった。談笑を交しながら、持ちよったおやつを分けあって食べて満腹になると元気回復。次の慈尊院へ向かった。
 道すがら、数メートルおきに柿の無人販売所があり、一網に四ヶづつ入った柿が積まれていた。二百円の値札は同じで協定のようだったが、つい、「あちらの方が粒揃いだったわ」と口走った私に、「シーッ」と黒江さんが唇に指を当てた。はっとして、周囲への配慮を気付かされた。しばらくは恥ずかしさと反省を胸において歩いた。
 柿の木がある軒の低い家並みの合い間合い間に、小さな野菜畑があってどことなく鄙びた景色を眺めながら行くと、木立に囲まれ、鎮もる慈尊院に着いた。空海の母君の寺院は女人高野と呼ばれ親しまれているという。
 世界遺産の丹生官省符神社を仰ぐと、一一九段の階(きざはし)は天へとばかりに真っ直ぐで清々しく、息を継ぎつぎ登った。安産と子授けの神へ、子、孫、曽孫と恵まれた幸せを感謝し手を合わせた。
 振り向くと、高所の社殿と向きあうはるか彼方の山は美しく紅葉していた。浮雲がその上に影を落しすべるように流れていった。誰かが「わぁーきれい」と感嘆の声をあげる傍で、心ゆくまでみとれていた。
 同じ道を戻る途中、先ほどの柿を各自が買って、料金箱にチャリン、チャリンとお金を入れてきた。道の駅でトイレと買物の休憩となり、いつも泰然たる滝尾さんが「娘に……」と、お土産を買い、優しい父性をのぞかせた。
 全員疲れも見せない足どりで、最後の真田ミュージアムに到着。スライドで真田一族の歴史を学び、実際の展示物を見てまわった。十勇士のひとり、筧十蔵が戦場で自由自在に扱ったという銃は、持ち上げようとしてもビクともせず、〝嘘でしょう〟が実感だった。また、一族の生計を支えたという真田紐の前に立ち、大好きな草刈正雄が演ずる、父、昌幸に情が移り行商までしたという説に胸が痛んだ。
 ミュージアムを後にした帰路。似たような坂道で迷い、尋ねた九度山の人は車から降りて丁寧に教えてくれた。温かさを感じ真田親子にも心安らぐ日もがあった筈だと思えた。
 駅へつづく坂の下で、心配顔で佇む山田さんに手を振り安心させると、ホームに入ってきた高野山極楽橋発、難波行きの電車に全員乗車。スケジュール通りの授業が終了した。
 先生も代表も終始笑顔で、頼もしい山田さんは知らぬまに級長さんにされ、坂下さんの明るい緑色のコートと相まって青空が広がった。ときおりふらついた私を、後方からそっと支えてくれたのは誰の手だったのだろう。多くを学んだ課外授業だった。携帯の万歩計はあと数歩で一万歩を刻んでいた。