かわち野

かわち野第七集

七十四年前の夏

西村 雍子

 一九四五年(昭和二十年)、私は両親の郷里、京都府北桑田郡山国村(現在京都市右京区京北)に縁故疎開した。母の実家でもある伯母の家に預けられ、『山国国民学校』に通っていた。
 夏休みのその日、私は学校にいた。校庭の端に植えられたカボチャの水やりか、飼っていた兎の世話で来ていたのだろう。クラスの何人かも一緒であった。
「天皇陛下のお言葉の放送があるよ」
 当直の先生の声で私達は講堂へ急いだ。休みで誰もいない広く大きな講堂はひんやりと涼しかった。そして、高い所に設置されたスピーカーから流れる玉音放送なるものを聞いた。その時小学二年生の私には、話の内容は何も理解できず、家に帰ってから、あれは『大東亜戦争』が終わった事を告げる大変な放送であったと伯父から教えられた。
 八月十五日終戦、その夜から電灯を覆っていた黒い布は取り除かれ明るい夕飯となり、家族の顔が輝いて見えた。
 八月六日、九日、広島と長崎に新型爆弾が落とされ、この先七十年は草木も生えないと大人たちの話すのを聞いた。
 この年は私にとってそれ迄の生活を一変する特別な年となった。都会の暮らしから、周囲を山に囲まれた田舎へ、母と弟の三人から、伯父伯母そして六人の従兄弟姉たちがいる大家族の中での生活が始まって半年が過ぎた。
 夏休みの朝、食事前に掃除、土間を掃き板の間を拭く。昼までは宿題を、昼食の後は川へ水浴びに行く。タオルを首にかけ着替えの下着を持って、村の西を流れる大堰(おおい)川へ出かけた。いつも一歳年上の従姉妹の末野さんと一緒である。川での泳ぎは初めてなのにその記憶はなく、いつも犬かきがすいすいと出来て川底の石拾いや鬼ごっこをした、そんな愉しい記憶がはっきり残っている。
 遊泳が出来る日は、河原の土手に赤い旗が立てられた。水が冷たい時、雨の為に水かさが増している時などは旗は無く泳げないのが決まりであった。
 そんな日の夜は、大きな(たらい)で行水をした。湯上がりには天花粉、あせも予防で体はさらさら。夜は蚊帳の中でお化けの話をして騒いだ。蚊帳は見るのも初めてで、それまでの生活ではない経験であった。

 前の年の七月に父が戦死、二十年三月に母は病死。弟は父方の親戚ヘ預けられた。

 それからの六年間は私の子供時代の素晴らしい宝物ともいえる思い出となった。
 山に田畑に、子供の出来る仕事をさせてもらい、多くの事を学び、学校でも良き友達に恵まれた。また、田舎の自然の中、四季折々に私は育まれた思いがする。
 綺麗な空気と水。春はレンゲの花の中で、夏の夜は蛍と星空を楽しみ、秋は稲穂と紅葉した天童山の眺めが素晴らしく、村祭りを楽しんだ。冬は雪、しんしんと降る雪、夜は裏山の竹に積もった雪が落ちる音を聞き、昼は雪の積もった田の中を木馬で遊んだ。
 ことに、正月の準備から藪入りの十五日までの行事の数々、何もかもが珍しく楽しく素晴らしかったのを思い出す。

 ああ、あれから私は随分遠くへ来たものである。今、田舎に帰ればまた、会えるのだろうか、あの素晴らしい自然と良き人々に。