かわち野第二集
川のような海
山田 清
二十六才の夏。
時刻表、メモ帳、簡単な着がえ等、その年の夏計画をバッグに詰めた。暑さに私自身が溶けてしまわないように思いきり派手に装いながらも、ケチで気楽な一人旅に出掛けた。
往路は、すべて普通電車。京都から、かつての商都だった倉敷へ、そして本州のお尻を切り取るように伯耆富士・大山を眺めながら山陰へと移る。松江城からみたキラキラと輝いていた逆光が似合いの宍道湖。湖面にさざ波をつくった涼風は、次々と天守を過ぎていった。乗客はまばらな電車の中、お母さんの肩越しに私をとらえてはなさなかった、山陰の赤ちゃんの瞳。汚れたものを見過ぎた目には、その純粋さが怖かった。
「駅まで送りますけれど、ここまで来て参拝していかないの…」。旅館の女将さんは、出雲大社の見える通りに車を止めると「ここからお参りしなさい」と言った。なじみはないがやさしい島根弁は、こんな内容だった。のちに「縁」を遠くしたのは、この時の敬虔さに欠けた所業が原因だったのかも知れない。神の住む国・出雲、車窓から見える深緑の山々までもが神聖に感じる朝だった。
幕末の志士を育んだ萩の町を歩き、青海島へ渡る。観光船に乗り、透き通るような青緑色の海に感動し、日本海の荒波が造った岩の彫刻を楽しんだ。もう歓声も罵声もきくこともなく競うことを捨てた秋吉台のサラブレット、都会を移動させてきたような秋芳洞に少しガッカリしたものの、今、赤間神宮の水天門の石段に座っている。そこから見える本州の西端、下関の海は川だった。
流れの方向は、日本海から瀬戸内方向だったのか、またはその逆方向だったのかさだかでないが、大雨で増水し、濁流となる故里の川のようだった。流れが運命を分けた「壇ノ浦の戦い」、林立する白旗の中、私は平家一門の軍船を懸命に漕いでいた。今も赤間神宮は、まばたきもしないで海の流れを見続けている。
若くして故里にいたころ、伊勢湾と三河湾へ潮干狩りに行ったことがある。少し汚いが遠浅の砂の干潟が広がり、波打ちぎわはずっと先の方だった。その後釣りにも、勿論海水浴にも行ったのだが、いつも穏やかでやさしさに満ちていた。海のない岐阜育ちの私には、それらの風景がこの歳までの、私の海だった。私の知っていた同じ海に、こんな激しさがあるとは……。
旅の終わりに、驚きの出会いであった。
そののち、同じような川の海を見たのは、鳴門の海峡であった。