かわち野第八集
彼岸花
徳重 三恵
俳句を学ぶようになって、そこそこの年月になる。「多くを詠んで多くを捨てる」が俳句の鉄則なのだが、近頃は捨てる句ばかりしか詠めていない。四季それぞれに美しく咲く花を見ては詠んだりしているが、胸を張ってこの一句などいうのは、もちろんまだない。
野に咲く花に好き嫌いはないとは言うものの、秋のお彼岸が近づくと、私は無性に彼岸花を見たくて堪らなくなる。
この花は開花してその美しさを保つのは一週間ほどなので、早く早くと心は妙にざわついて仕方がない。
《早く逢いに来てよ。わたし、それほど待ってられないから》
などと花のほうも〝逢いに来てよコール〟を送ってくる。
そんなわけで九月の二十日、小雨の中を家から二十分ほど歩いて、田圃のある場所までいそいそと出かけた。例年なら、田圃の畦に赤い線をすっと引いたように花を見ることが出来る。けれど今年はパラパラ程度しかない。がっかりして家に戻ると娘からLINEが入った。
「明日、家にいますか? 買物とかあれば一緒に行けますよ」
「彼岸花を見に連れて行って欲しいの!!」
とすぐさま返信する。
翌日の二十一日、秋のドライブ先は金剛山の麓にある千早赤阪村の棚田という事になった。
この棚田は小規模ながら「日本百選」のうちの一つである。いつもなら写真愛好家などが、わんさかと押し寄せている筈なのに人がいなし、期待の彼岸花もあまりない。
昨今のコロナ禍で密を避けているのは人だけでなく、彼岸花でさえも密集を嫌ったということなのか。
棚田まわりの花はもう咲き終わっている。まるで燃え盛っていた火が鎮火したような、はたまた、舞台裏の女優さんのように《わたし疲れました》とばかりにシュンとしている。
《もう少し早くに来て欲しかったのよ》
そんな声まで聞こえそう。
彼岸花たちの大方は自分を女優と思っているような気がする。
「あーあ、今年はもうあかんのやね。別の場所に行って見る?」
折角のドライバーさんも、私が気落ちしているのを見て残念がっている。
「そうね。数本でいいから飛切り美しいのを見たら帰ろうね」
ということになる。
あたりの田圃はもう刈入れも終わり稲架にかけている所もある。
秋景色を見ながらドライブを楽しんでいると、木蔭にひとかたまりになって彼岸花が咲いているのを見つけた。
咲き初めたばかりなのか、蕊はいきいきと輝いて、すこし濡れているようにさえ見える。花の反りはまるで西洋人形の睫毛のようにカールしていてとても美しい。
「ありがとう。この彼岸花を見られただけで今日は大満足よ」
あとはお茶して帰りましょうとなった。
ところで、この彼岸花がどうして田圃の畦に線のようになって生えているかには、意味があるらしい。それはモグラ対策なのだと先日、聞いたばかりだ。
モグラは土中に穴を掘ってミミズや昆虫の幼虫を食べるために土を隆起させ、農作物に被害を与えてしまう。だから実った稲穂を守るための手段としての花だと教えてもらった。
畝わつと火の匂ひして曼珠沙華
三十年ほど前になるが句会で、高得点を受けた私の句である。主宰の特選もあり、初学の頃だったのでとても嬉しかった。
私がその後、今に至るまで彼岸花を恋うのは間違いなく、あの日の一句に起因している。
以来、数えきれないくらい彼岸花(俳句の場合、曼珠沙華と表現することが多い)を詠んでいるが、まだ納得したものは詠めていない。
さて、今日は飛切りに瑞々しく色鮮やかな、彼岸花を見て帰ってきた。まだ目の奥にしっかりと残像がある。これをどう一句に仕立て上げるかが問題だ。万人が見て万の句の中から、類想でない自分の句を詠まねばならない。な~んて、格好いいことは素人には無理な話である。
ひと叢の蕊まだ濡るる曼珠沙華 三恵
残り火のなほちろちろと曼珠沙華 三恵