かわち野第八集
五輪観戦記 余情
山田 清
昭和39年(1964)10月10日。
ファンファーレが高らかに鳴り響いた、快晴の国立競技場。それは日本国が、戦後の苦難の時代を乗り越え、高度成長に向かっての雄叫びであり、全世界へと発信したのであった。
その日、学校は午後から休校となった。
満場の観客席から、大歓声があがる。購入して間もない白黒テレビの前で家族が揃い、身震いするような感覚で見入った。
あの日からすでに半世紀以上、もう一度あの日あの時の感動を……。
平成25年(2013)9月。深夜にもかかわらず多くの国民が、二度目の夏季東京オリンピックの開催決定を待った。IOC会長の持つカードに「TOKYO」の文字、喜びに醒めた忘れられない瞬間である。
(自国での二度目の夏季五輪、元気で観戦しよう)
指を折って年を数え、新たな目標ができた。
ブラジルのリオデジャネイロ五輪から、4年プラス1年が過ぎた。
夏季東京五輪の開催は、予期しなかった新型コロナウイルスが世界中に蔓延し、1年間の延期を余儀なくされ、さらには開催にたいして賛否両論が沸き上がっていた。
イレギュラーで無観客の大会となったが、参加205ヶ国、選手約1万1千人が集った。感染拡大に配慮して大過なく大会が開催されたことは、最大の喜びであり、我が国の誇りでもある。殆どの参加選手が、開催されたことへの感謝の言葉を述べていた。
プラス1年と無観客でのオリンピック、選手のみならずボランティアや私達観戦者のそれぞれの思いとともに、後世に語り継がれて行くことだろう。
今、聖火が消えようとしている。
ギリシャで採火された神の火は、東京に集った人々を、執拗な新型コロナから守り続けてくれたにちがいない。その役目を終え、神の国へと帰路に立つ。
人類の平和の祭典に仲間入りしたいのか、はるか南方にいた迷走台風9号が接近してきている。真夏の首都東京は、国をあげて開催した世紀のイベントの最終章である。今少し待って欲しい。
「ありがとう」、二度目の東京オリンピック。
場内が暗転し、ライトが競技場の観客席を走る。ランダムなカラーシートがテレビ画面に映し出されると、まるで観客が座っているかのようにみえる。この新設された国立競技場の設計者は、コロナウイルス禍での無観客開催という予感があったかのようだ。
男子800M予選、レース中に接触し転倒した2人の選手が、手を取り合ってゴールしたこと。2人の金メダリストが誕生した、男子走り高跳び決勝。
寸前まで勝利者の予感があった、男子走り幅跳びの選手。痛めていた足を鼓舞し、再逆転をかけて最後の試技にのぞんだ、悲しい勇気。
男子400Mリレー決勝、第9コース日本の攻めのバトンが繋がらなかったシーンなど。
カラーシートは、しっかりと見届けたはずだ。
しかし、座席を埋め尽くした大観衆が、やはりいて欲しかった。その観戦者の造った感動が、もっともっと沢山あったのではないか。予告のないドラマが共感の嵐となり、何度もスタンドを駆け巡ったにちがいない。そう思えば、やはり寂しい。
夏季オリンピックは、東京からフランスのパリに受け継がれる。今度は、4年マイナス1年が造る感動が始まる。
私は幸いにして、二度目となる自国開催夏季オリンピックの、濃密な観戦を終えた。そして、沢山の感動メモで埋まった手帳を閉じた。
今、疲れた両目に、目薬をさしている。
余情が浸みる。