かわち野第八集
福井地震
井上 文子
一九四八年六月二八日、午後五時頃、M七・一の地震が起きた。震度七、死者三七六九人。家屋の被害五万戸以上と後の新聞に記載されていた。
当時私は七歳で、坂井郡三国町三国北小学校の二年生であった。
その日の夕方、私は母の言いつけで漁に出る父に弁当を届けるために家を出ていた。ワッパ(漁師の弁当筒)と言われるもので、上の段はご飯、下の段には醤油差しと小皿、漬物が入っている。釣った魚を刺身にして食べるのである。
家から船着き場までは十分位で、大通りを横切って少し行くとだらだら坂になり、降りていくともう父の船が見えてきた。父は忙しく漁に出る用意をしていた。ワッパを受け取ると間もなくエンジンを掛け、音と共に沖に向かって出て行った。私は船が小さくなるまで見送った。
帰ろうときびすを返すと同時に揺れが来た。ゴオーと不気味な音と共に電線が大きく揺れ、空には暗雲が垂れ込めていた。目の前のコンクリートの荒い地面が割れ、亀裂が走るように向こうまで延びていった。立っていられない。私は四つ這いになり、その割れ目に指を引っかけ、這うようにしてだらだら坂を登った。登りきった辺りでようやく揺れも治まった。
大通りに出て混雑している人達をかき分けるようにして路地に入ると大家さんの中庭にでた。その後ろに建物が在り、右と左に二軒が間借りし、私達は二階の三間を借りていた。そこに向かって大声で母を呼んだ。
「かあちゃん、かあちゃん」返答がないので、通りまで引き返し「わぁん、わぁん」泣いていると、恐怖と不安にかられた人達が右往左往している。中で私の名を呼んでくれる人がいて、「お母さんのいる所へ」と手をつかんでくれた。私は泣きやみ必死で歩いた。お隣の若い母親で、赤ちゃんを私の母に預けて私を探しに来てくれていた。
ようやく母に会えた。裏の空き地に近所の人たちと避難していて、皆口々に恐ろしかった事を話していた。
母は、幼い妹を横抱きにして転げるように階段を降り、玄関のガラス戸(下半分板で出来ている)を蹴破り外へ出たと……。揺れで戸が軋み、開かなかったのである。
その日は余震が来ると言って、外で夜を迎えた。リンゴ箱の上に戸板を乗せ、その上で寝た。子供心に、普段と違うところで眠るのが少し嬉しいような気がした。夜空に星がいっぱい出ていて安心し、何も食べなかったのに寝入ってしまった。
明け方、父の声で目が覚めた。船のラジオで地震の発生を知り、船を美川港(石川県)に着けて、倒壊した家の瓦の上を歩いてきたと話していた。
借りていた家はもう住めなくなり、間もなく私達一家六人は父の船に生活用品を積み込 み、三国港から越前海岸に面した寒村に引っ越した。祖母が隠居していた空家に落ち着いたのである。
父が「もう、ドンドンしても良い」と言ってくれたので兄たちと思い切り足音を立てた。母は近所の人達が家に来ると、戦災で焼け出され、震災で住んで居た処が住めなくなり、やむを得ず越して来たと口癖のように話していた。私は三国の暮らしより、自然がいっぱいのここが良いと思っていた。
少し高台に分校があり、そこからは家々の屋根の間に日本海が少し見え、白い外国船が通っているのもよく見えた。
『みかんの花咲く丘』という歌を聞くと今もあの頃を思い出す。