かわち野

かわち野第十集

室生犀星『われはうたえどもやぶれかぶれ』

鈴木 幸子

 軽井沢滞在から、入院生活までの体験を綴った『われはうたえどもやぶれかぶれ』は老齢のうえに、病気に追い詰められて、まな板の鯉になった室生犀星の人間としての、生き方の反応である。

 本人へは、肺癌とは、知らせてなかったにせよコバルト照射をしておれば、病名を察したであろう。むせびながら少しずつでも煙草を吸い胸の痛みが去るのを待ってまた繰り返しているうちに咳が止まり一服の煙草が、ゆるゆる通ってゆくことをおぼえたという箇所は、闘病というには程遠く、何か自分にふりかかってくる大きい見えないものへの、あがきがあり、抵抗しているようにも思える。そして、まるでなにかに挑戦しているようだ。
 読売文学賞の会合で、コホコホと控えめに咳をしている青野季吉氏に「風邪だとすると隣にいては、うつりませんかな」と愛嬌半分に言ってしまった後の作者の反省が、私達の付合いでもよくあることなので人間らしい一面を知り身近に感じる。その後の青野氏の告別式のあと自分の容姿を黒い手二本持った川蟹にたとえたりするのは、自分自身を振り返り人間としての生活もそろそろ終わりかと、死がよぎる思いの表れではないだろうか。
 夕刊の学芸欄で見つけた宇野浩君という大きい見出しに端を発し、自分の思いにエピソードを交えた鎮塊の祈りのようにも読み取れる内容の文章は、生きているうちにこれだけは言っておこうというふうに読み取ることができた。
 他にも、死を意識していると思われる箇所はいくつもあり、死がさざ波のように行きつ戻りつしている。
 生きることへの郷愁のような場面も、雄としての欲望表現で読み取ることが出来る。
 自分の身体に残っている生き物としての胤を拡散させる男性ならではのバロメーターで、健康度を計ろうとしているようにも思える。
 私達女性には、理解できない部分だ。
 手押し車に乗った作者が、待合室の若い女性たちの膝から下の素足を美しいと思い、他 人行儀なよそさんの足を見たのは久しぶりであった。無限な優しいものがあったと心にとめている。
 地下にある放射線室の寝台の上で嫌な治療が始まる時、おんなという感覚を呼ぼうとするが、それがちっとも頭にこなくて、これはもう私には、もはや毎日おんなを考えようとしても、欲情が枯れかかっていることに原因があること、もはやおんなですら私のたすけになることが稀薄になったと悟っている。
 きわめつけは、安西博士の指示で、カテーテルをスムーズに挿入するため例の毛を剃ってしまった。その後、その毛を取り戻そうとする心理に元気でオスの役目を果たしていた頃を回顧する真情がにじみでている。これが同じ自分の身体から離れた頭髪や爪であれば執着しなかったであろう。

 この尿閉は前立腺肥大ではなかろうかと思えた。バルン(管)を入れていても先端のチップを時間毎に開放すれば排尿と同じだ。入浴もできて快適に過ごしていた患者さんを見て来た私には作者が、治療を受けた頃と違い、現代の医療の現場は格段に良くなっていると思う。
 医療器具の先端につけるチップもねじ付きの錠を用い男で不埒な人間は、この錠のあるカテーテルを常日頃通しておくべきだと、貞操帯にたとえるくだりは苦笑して面白がっていた。この自分の身体に課せられた重荷に対しても余裕をみせている。どこか達観した風格さえ感じた。
 スムーズに放尿できない苦しみが、ヒタヒタと伝わってくる表現がいくつもあった。
 水を飲めばすぐ尿意に絡んでくるので、普段から極端に水分をとらない上に、夕方前には水とか茶とかビールとかは一切取らなかったのでは、尿を作る水分が身体に無かったのではないだろうか。何度、トイレに通っても尿がつくられて無かったら排尿のしようがないではないか。身体が要求する程度に飲んでおけば、あれほどまでも苦しまずにすんだのではないかと推し測った。
 意志を曲げないこの頑固さが生きる力になっていたのかもしれない。
 人間は悲しくて、いとおしいものだという感慨を持った。
             完