かわち野

かわち野第十集

私の七五三

内田 みづほ

 私は幼い頃、祖父母に育てられた。自然豊かな愛知県の山あいの村が私のふるさとだ。今は人口千人ほどの限界集落である。三歳の七五三は祖父母の家で行った。楽しげで、にぎやかな大人たちに見守られていた。が、そこには父母の姿はなかった。七〇年も前のことなので、記憶が定かではない。

 私は何も分からず「今日は特別な日なのだろうな」と緊張しながら、楽しい気持ちでいただろうと思う。祖母はたった一日のこの日のために大忙しだった。農作業で疲れた体をおして、夜なべをして私の着物を縫ってくれた。張り切りようが伝わってくる。子どもの着物のサイズは三つ身、四つ身などあるそうだ。四つ身の着物は三歳から十二歳位まで着られる。孫の成長を願って七歳でも着られるように四つ身の着物を仕立てた。
 当時の着物は今のような華やかな色や柄ではなかったと記憶している。私の着物も確か、地色が茄紺(なすこん)色で、一筆書きの花が描かれていた。写真が白黒のため、今となっては確かめようがない。着物は着崩れしないように肩上げ、腰上げをした。が、三歳の私には袖が長く、裾も体にまとわりつく。私はこの特別な日が嬉しくて、裾を引きずるようにして、家中を走り回った。
 当時、山村の村に写真館はなかった。隣町の写真館の当主が出張撮影をしてくれた。大人と子供の追いかけっこが続く。大人が追いかけるほどに私は歓声を上げて逃げ回る。シャッターを切るチャンスがない。私が走り疲れて、襖に凭れた所をパチリ。たった一枚の記念写真である。私はつぶらな目で一点を見つめている。その先に何を見ていたか知る由もない。祖母は「子供は座敷の花」と、嬉しそうによく話していた。この時の情景を思い出していたのかもしれないと、ふと思う。

 昭和三〇年頃、田舎で七五三の祝いをする家はほとんどなかった。祖母の孫への愛情は特別で、その願いがかなった晴れやかな日だった。
 その後、私は都会に住む父母に引き取られた。そのため、祖母が丹精を込めて仕立てた着物を七歳の七五三で着ることはなかった。
 時を経て思い起こすことは、七五三の行事から祖父母の愛情が十分伝わってくる。温かな思い出とともに、その愛情が今の私を育んでいる。祖母の想いは私から子や孫に脈々と受け継がれている。
 今も祖母に見守られていると静かに感じる。