かわち野第11集
ヤマトタケル
坂下 啓子
思い切って出掛ける事にした。歩くと少しふらつくが、杖を突けば充分心斎橋の松竹座までは行ける。
二十年位前になるが、ふと思いついて同じ松竹座で三代目猿之助の「ヤマトタケル」を観に行った事がある。新しい演出に加え、宙乗りが評判の芝居であった。席に着いてすぐさま私はその舞台に引き込まれた。当時猿之助は60歳前後であったと思うが昼夜2回の公演をエネルギッシュで若々しく声量もあり、セリフ回し、立ち回り全てにおいても素晴らしく感動したのを覚えている。今回孫にあたる市川団子がその「ヤマトタケル」を演じるのだ。是非とも観たいと思った。
「ヤマトタケル」を演じる市川団子と父親である市川中車の記者会見が令和6年の2月にありその舞台にかける決意を語った。叔父にあたる4代目市川猿之助が自殺補助罪で捕まり全ての舞台を下りた。父親である中車も銀座のバーでのセクハラ行為が問題になりテレビに出られなくなった。祖父にあたる猿翁も昨年9月にこの世を去り、大叔父夫婦もいなくなったのだ。もう後ろ盾は誰もいない。
今、こういう状態の澤瀉屋を背負い唯一穢れのない二十歳の青年に大きな期待が掛かっている。是非とも成功させねばならない。しかし彼には悲壮感はまるでない。屈託のない明るい青年なのだ。応援したい。そして祖父の血を受け継いだ彼がどの様に演じるのか是非とも観てみたいと思った。
高島屋の地下で鰻弁当とお菓子を買い、いそいそと松竹座に向かった。私が杖を突いているだけで皆サッと道をあけてくれた。劇場でも案内係が席まで連れてくれる。日本人も捨てたものじゃない。弱者には親切だ。
劇場内を見渡すと、ほぼ満席で皆の熱気が伝わってくる。やがて大きな音量と共に幕が開き興奮する。
私にとって癌転移が見つかってから初めての舞台鑑賞になる。やはり私は生の舞台が好きなのだ。
幕開けは市川中車が中央に出演し、暫くしてヤマトタケル役の団子が中央のセリから上がって来た。大拍手が沸き上がる。この会場にいる全員が彼を応援して役者と観客が一体になった瞬間だ。
可愛い小さな顔だが背丈はある。私には孫の颯太が大きくなってそこにいる様に思えた。
舞台の転換はスピーディー。団子は兄と弟を早変わりで演じる。また相手役の中村壱太郎も椿姫の姉と妹の二役を演じ分け美しく本当の女性にしか見えない。上手いなあ。
他の役者たちも一団となり主役を盛り立てる。団子は声もいいし、早変わりも素早く切れも良い。彼なら澤瀉屋を背負えると思えるのだがまだ弱冠二十歳。どうか重荷になりすぎないように皆で守って欲しい。最後の宙乗りでは顔を上げ、ゆっくり観客に感謝の意を込めて羽搏く、まだいたいけない姿に涙が溢れた。
以前観た三代目猿之助の「ヤマトタケル」の舞台は初めてで興奮し感動したのだが、今回は孫を見守るような気持であった。この波乱の最中に澤瀉屋を一身に背負って立つ若者に、精いっぱいのエールを送りたいと思った。
帰り7月の歌舞伎の券が買えた。恒例の片岡仁左衛門の舞台だ。運のいい事に中央の前から5列目が一つだけ空いていた。この機会を逃せばお互い何時最後になるか分からない。今回、意を決して行けて本当に良かった。