かわち野第四集
「母」
岩井 節子
亡くなった母の部屋を整理していたら、女学校の卒業者名簿が出てきた。正確には、母の入学の年に鹿児島女子商業学校となり、昭和20年に鹿児島大空襲で全焼し、現在は城西高等学校となっている学校のものである。
戦争の動乱の中での卒業生。彼女らの人生が平坦なものでなかったことを想像させられるものだった。昭和19年3月の卒業生190人のうち、住所のわかっているのは、母を含めてたったの4名。ほとんどが行方不明となっている。卒業後40年を経て作られた名簿とはいえ、あまりの不明者の多さに驚いた。過去のことはあまり語らなかった母。晩年になって、名簿で、不明者の中に友人の名前を見つけては、旧友を偲んでいたのだろうか。棒線や、旧姓らしきものが書き込まれていた。語るには辛すぎる母の淋しい一面を見たようで、涙が出てきた。
母も台風で家を流され、その後の戦火で、残っていた家財等まで失ったと聞いた。疎開先で働きに出て弟妹を助け、父に出会い結婚。父の家が山奥だったので馬車に乗っての嫁入りだったと言う。残念ながら、私たち姉妹がそのような事を知ったのは、母が亡くなった後の法事で、叔父、叔母の話からだった。
私の覚えている若かりし頃の母は、農協をやめて、田舎で商売を始めた父に付いて行って、無理を重ねていたのか、何度も入退院を繰り返し、よく温泉に湯治に行っていた。病院の母の所に泊まったり、父に湯治場へ連れて行ってもらって、温泉で炊いた黄色いご飯を食べたりするのは、当時小学校低学年の私には、両親の大変さを思ったり、淋しいと思うより、嬉しいことだったような気がする。三姉妹の真ん中の私は、あの頃からすでにお気楽だったのだろう。父や姉の苦労、妹の淋しさなどに、今ごろやっとおもい至っている。
母は田舎の雑貨商で忙しかっただろうに、季節折々の行事は大切にし、私たちに伝えてくれた。お正月にはきれいに花を活け、着物姿でお店に出ていた。紫色の着物が良く似合う、おしゃれな人だなと思ったのを覚えている。
いろんな病気を一人で引き受けながら、現在のみを見つめ、愚痴を言わなかった母。我儘を言って、もう少し私たちに甘えてくれていたらなら、優しい気持ちで思いやれたのに……。自分の子どもたちが巣立ち、心にゆとりが出来た今になって悔やんでいる。
『親孝行、したい時には、親はなし』
私はせいぜい我儘言って、こどもたちに後悔させないようにしなくては、と思うのは穿ちすぎであろうか。