かわち野第四集
タモリへの思い
坂下 啓子
「笑っていいとも」という番組があった。お昼にテレビをつけると、ウキウキ、ウオッチングのテーマ曲に合わせてイケメンの青年が踊りだす。フジテレビのお昼の1時間、全局30ネットで月~金曜日、何と1982年から22年間も放映していたのは、まだ記憶に新しい。
タモリがいつの間にかテレビの世界に出て来て、あっという間に人気者になった。確かに、4ケ国マージャン、(毛沢東・マッカーサー・ヒトラー・昭和天皇の対決マージャン)はお腹を抱えて笑ったし、牧師さんスタイルの話芸は、すごい人が出てきたなと思った。 しかしながら、22年間は長すぎる。タモリの面白さもマンネリ化し、ゲストの芸で繋いでいる様な気がしていた。その「笑っていいとも」が終わると聞いて今までよく持ったなという感がした。まあ、気に入らなければ見なければいいだけのことではあるのだが……。
つまり、私的にはタモリに飽きていたのだ。
ところが、私の中で彼に対する評価が百八十度変わる出来事があった。
ひと月ほど前、ラジオ深夜便を聞いていると、萩本欽一の人間塾のコーナーにタモリが出てきた。萩本さんの今一、的を得ない質問にサラリと答え、彼の中学時代の話をした。
弁論大会があり、出場者を募集した。彼は手を挙げ、クラスの皆に「必ず優勝するから」と出場したが、残念な事に五位に終わった。
その時の題は「この世から、原爆を失くそう」だった。彼の中ではこの内容はいけると思ったのだろう。納得がいかないので職員室に、どうしてだめだったのか聞きに行く。すると先生から「君のは大げさ過ぎる。もっと身近な問題を取り上げなさい」と言われた。
「よーし、解った」
次の年、又名乗りを上げる。クラスの皆から「止めておけ」といわれるが、彼は宣言する。「もう、要領はわかった。今度は必ず優勝するから」と。
題名は「挨拶をしよう!」である。これ以上、身近な話題はない。人間の最初のコミニュケーションは挨拶から始まると言う内容で、彼は見事に優勝する。勿論、拍手喝采でクラスに迎えられた。中学生の彼の度胸と機転に私は感服する。
彼は小学生の時、下校途中に電柱のワイヤーに顔をぶつけ、針先が右目に突きささって失明している。中学時代、サングラスは多分していなかっただろう。一番多感な時期に、コンプレックスをものともせず、積極的に生きる力に只者ではない思いがする。家庭的にも、母親が三回結婚して両親とは暮らさず複雑な環境に育ったらしい。
私の中学時代を振り返ると五体満足に生まれながら、コンプレックスの塊で、何と消極的であったことか。
彼は一浪して、早稲田の二部に入学するが、学費未納で退学になっている。それから、叔父に博多に連れ戻される。
保険外交員や喫茶店のマスターなど、転々としながらも、人を笑わすこと好きが高じて博多に面白い人がいると有名になった。それで彼のファンが交通費を出し合って、月に一度、東京に呼んだのが芸能界入りの始まりだそうだ。
ラジオでもう一つ話がある。彼が街を歩いていると、聖書を持ち、一人一人に話しかけている女性がいる。話しかけられた人は、手を振りながら迷惑そうに去って行く。タモリが通りかかると、その人が近づいて来た。
「私と、神について話しませんか」と言う。タモリが彼女の目を見つめ、ゆっくりと構えて「私が神です」と言うと、彼女はびっくりして、こんな人は相手に出来ないとばかりに去って行った。
常にタモリは相手の上をいくことを考えると言う。夜中に一人聞いていて、面白くてゲラゲラ笑ってしまった。私はこういう手合いの笑いが大好きである。是非、試してみたいのだが、残念な事に最近見かけない。
NHKの「ブラタモリ」も見逃せない。勿論、前もって勉強はされているのだろうが、歴史や文化、地形にいたる知識は付け焼き刃ではない博識が感じられる。会話もウイットに富んでいて勉強になる。
あの日以来、私の中でタモリはかなり尊敬する存在になっているのである。