かわち野第四集
Come again (京都人)
松本 甫
京都は平安京が造営されてから明治初期に東京に移るまで日本の首都であった。この地を訪れた人たちを虜にする京都の魅力とは何か? それは『京都人』に違いない。
京都盆地には平安京以前にすでに加茂氏、秦氏を中心にしていくつかの氏族が生活していた。平安京は加茂氏族から人を、秦氏族からは土地の提供を受けて成り立った由来がある。以来氏族の神には高い階位がさずけられて、上賀茂神社は現在でも勅使が詣でる勅祭がとり行われている。下鴨神社の重要な行事である「矢取りの神事」や五月十五日には京都の三大祭りである葵祭が行われる。
京都と西欧諸国のヨーロッパ文明があらゆる面で邂逅したのは、ほんの十八世紀末からの事である。十六世紀の鎖国以後に初めて京都を訪れた外国人は、京都とは世界で最も美しい町であると感嘆したと言う。京都は常日頃町居のたたずまいの中に、私は不思議な感覚にとらわれる事がある。東京であれ、大阪であれ、他のどの都市でも味わうことの出来ない感覚は、言葉では言い表せない生活感なのである。
第二次世界大戦の無差別爆撃で日本の主な都市の大部分は焼き払われ、その町だけが持つ臭いが失われてしまつた。幸い戦禍をまぬがれた京都には、平安京の時代から醸し出されたそれが手付かずのまま残っていた。神社仏閣の他に京都には昔のままの姿をとどめている町屋がある。島原界隈もその一つである。
「廓」と書いた提灯のかかった大門を入ると国の重要文化財である「角屋」、格式の整った「輪違屋」の定紋入りの暖簾や辻行灯、江戸初期の遊里をしのばせる建物が目を引く。
間口が狭く細長い京都特有の町屋、路地に囲まれた細い格子造りの商店、灯る街路はほどよく暗い。夜のとばりが下りると、幾重にも陰影に富む影の町、京都には他の都市では味わうことのない時間と空間を超えた不思議な感覚に身が浸される。周囲を北、東、西の山に囲まれた街は、祇園祭りの頃が最も蒸し暑く、南から照らす亜熱帯の太陽は肌を焦がすほど強烈だ。
鴨川の西岸には初夏から九月の中頃まで、納涼床が出て夏の夜の風物詩となっている。
古い紅殻格子の家並に沿う道は永年馬車ぐらいしか走っていないので、道幅が狭く車もすれ違えない。町人は夕涼みに散き水をし、四条大通りを散水車がゆっくりと走り、アスフアルトから水蒸気が立ち昇る。
錦小路は3メートル余の狭い道幅に、145軒余の商店が300メートルも長く店を出している。室町時代から今も変わらない老舗の市場で京都の台所である。錦小路の市場のことを京都人は「錦」と呼ぶ。ただそれだけでお互いに通じ合う。漬物の「すぐき」、1㎏が9千円の「夏鱧」など京都独特の品物を商う店が沢山ある。惣菜屋の店先には里芋、南瓜、ゆり根等が細工されてきれいに造形的に並んでいる。狭い通路にはみ出す様に掘りたての筍と青野菜が同居している。「錦」なればこそである。
妙心寺は全国に末寺3千5百を有する臨済宗妙心寺派の大本山で、40余りの子院塔頭を擁する大寺院である。妙心寺に限らず、智積院は真言宗新義智山派の本山である。千数百年前に遣唐使によってもたらせた仏教文明は、地方に伝わり交流しながら洗練されこの地で開花した。京都にはその胎内にすべてを取り込みながら育んでいく包容力と強さがある。
明治の初め琵琶湖からの疏水で発電所を作り、日本で初めて市電を営むなど、海のかなたからくるものに新しく取り組む思想が溢れている。
祇園町は四条通を挟んで、北と南では同じ祇園でも趣が少し違う。初夏になると北の祇園新橋あたりに「芙蓉」の花が咲く。「そうどす」「そやおへん」「おいでやす」と言う言葉には、はんなりとした京都らしい響きがある。 これらは島原界隈、祇園、先斗町、などの「廓言葉」であったものが京言葉として広められたものだ。こんな言葉が使われるのは、花街か古い商家である。でも若い人達の間では人気がある。
外見は仕舞屋の様で玄関から狭い階段があり、襖を開けるとクラブになっている店がある。太い床柱の一段奥に鴨居を挟んで和箪笥に囲まれたボックス席がある。古都らしい祇園の気品と落ち着きを感じさせる。
「ようこそ、おいでやす」と言う言葉のあと、京都人は喋ってからにっこりと笑う。
明治維新後に九州、四国、関東の地方人が都に移り、お上りさんが都人になった。一言で『京都』と人は言うが、各人各様、京都人の数だけの京都があるように思える。
初夏にねっとりと熱く湿った路地を歩くと京都にいることを実感する。
私が若い頃「安保反対」と叫んで、四条通をヘルメットをかぶり鉢巻きを締めデモした様に、今、「憲法九条を守れ」と都大路を「デモる」学生の叫び声が大通の風に乗って吹きぬけてゆく。
京都は今のままで、明日を迎えるだろう。