かわち野第四集
九度山の赤
山田 清
かねてよりの打ち合わせ通り、南海電鉄高野線の九度山駅に、もれなく刻限に集結した。
真田十勇士ならぬ、話し方と綴り方の教室、「アイマイミー」の十二有志が参陣した課外授業だった。真田の赤備えにならい、私は赤の防寒着をまとった。
前日は雨の一日だったのに、当日は好天気と、いよいよクライマックスを迎えるテレビの大河ドラマ人気とで、平日にもかかわらず沢山の人出になったようだ。日差しはあるのだが、時折に吹く北風は、やはり十一月の冷たさだった。
改札を過ぎると、いきなり下りの急坂。九度山丘陵の高低差を感じさせるメインの町道は、何度もゆるやかに曲がりながら、家並みを左右にわけていた。抜け穴伝説の真田古墳を経て、真田父子の生活していた真田庵に立ち寄った。
あちこちに、この地の名産品である富有柿の無人販売所があり、網に囲まれた干し柿が吊してあった。紅葉狩りの刺客十二有志は、思い思いの秋を探して、町中を進軍した。
昼食をとったのは、道の駅に隣接したイベント広場だった。いくつものテントがあり、椅子があり、机にはクロスまで敷かれており、立派な野外食堂がすぐにできあがった。道の駅で買ったサバとサケの柿の葉寿司は、少々冷たいが美味しい。
食事が終わると軍議を開き、この先にある慈尊院への行軍が決まった。消防センター、町の文化やスポーツ施設を右手にして、再び町中に入った。隊列は自由、前になったり後になったりと、それぞれが思いのままに歩いた。小川にかかる赤色の小さな橋を渡ると、めざした慈尊院の門前はすぐだった。
院内に入り、正面に見える急な石段を登ると丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)だった。弘法大師空海が建立した神社であり、女人禁制のため慈尊院に滞在している母をたずねた町石道の起点であり、空海の母恋道(ははこいみち)である。
境内を見渡すと、ひときわ赤く色づいた部分のある紅葉が目についた。陽光を一杯に浴びた赤に比べて、ほんの少ししか光の届かない日陰の緑。
急がなくていいから、どっしりとかまえよ。今、日当たりが少なくても、きっと出番がやって来る。病葉(わくらば)の赤で終わらないで、必ず錦を飾って欲しいと思う。雨の日や風の日も、熱い日や寒い日も同じ空気を吸った同じ木だからだ。始まったばかりの秋の風景が、そんなことを感じさせてくれた。
帰路に真田ミユージアムに寄り、今度は上りとなった駅前の急坂を登った。午後四時、山腹の駅、九度山は少し寒かった。
真田の赤備えのような深い紅葉は、もう少し先だった。