かわち野第六集
てるてる坊主
黒江 良子
昭和三十二年の大阪。私が小学五年生で妹が小学一年生の夏休みの事だった。
その日は、父が出勤し母も仕事を持っていたので留守で、兄達も外出していた。宿題を終えて二人で台所の板の間にペタンとお尻を落として座って麦茶を飲んでいた。麦茶は母が大きなやかんに沸し、やかんごと洗い桶に溜めた水につけて冷やしていた。
「もう一杯、入れて」と妹がコップを前に出した。私はすぐに立ち上がって、やかんを持ち上げたが余りの重さに気を取られ溢れそうになる程注いでしまった。
妹は手にしたコップをそおっと口に近づけて飲もうとしたが、麦茶を零して服を濡らしてしまった。「あーあ。びしょびしょやないの。ちょっと待ってて」と慌てて妹の着替えを取りに行った。
しかし、箪笥の引き出しを一段一段開いてみたが見当たらなかった。その時、一番下の引き出しに真新しい白いシーツがあるのが目に入った。一度引き出しを閉めてすぐ、あのシーツで服を作られるかもしれないと閃いた。
少し経って、よし作ろうと思った。既に私の頭の中は、可愛い白いワンピースで一杯になっていた。
一方妹は、部屋すだれの前で肩にタオルをかけてパンツ一枚で突っ立っている。
「姉ちゃん今から服を作ってあげるから座って待ってて」と言うと「うん」とちょっと怪訝そうな顔をして私を見た。
部屋の隅では、黒い扇風機が鈍い音を立てて首を廻している。その前で妹は座って私をじいっと見ていた。
まず、そのシーツを畳の上に広げて二つ折りにした。妹の着丈を計るために背中に当て、余分な部分を切り落とした。次に頭を入れる所を半円に切ったが中心から少し右寄りになった。「おいで」と言って着せようとすると頭が入らない。それで、又半円の所をひと廻り大きく切った。
やっと頭が入ったが左肩幅が広くなり、アンバランスになってしまった。
「姉ちゃん、まだ?」と妹が急がせるのでそのまま縫う事にした。その時、私の額から汗が滴り落ちて来た。それを物ともせず縫いにかかった。手を通す所を残して脇を縫おうとしたが、シーツは真っ新で目が詰まっていて容易に針が通らない。ようやく脇を縫い終わり、裾は家庭科で習った三折絎をした。
一針ごとに指抜きで針を押し、縫い終る頃は指が痛くなった。悪戦苦闘の連続だった。
やっと、出来上がり「出来たよ」と言うと「出来たん」と嬉しそうに妹はとんできた。
そして、手を通して満面の笑みを浮かべる。
今から思えば、妹の立ち姿はまるで弥生時代の人の様にも見え、動くと漫画の『一反もめん』といった感じだ。思い描いた可愛いワンピースに程遠く、限りなくシュミーズに近いものでもあった。
しかし、妹は鏡台の前で首をかしげたり、嬉しそうに鏡を覗き込んでいた。
その頃、交番の若いお巡りさんが一軒一軒、家族台帳を持って訪ね歩いていた。
我が家にも来て「家族の皆さん、お変わりないですか」と聞かれている時、妹が出て来て「姉ちゃんが作ってくれてん。この服」と見せた。お巡りさんは「この姉ちゃんが?」と笑顔で言いながら家族台帳と服を交互に見た。
私は、ちょっと誇らしい思いもあり、気恥ずかしさもあり、又達成感もあった。
夕方、母が帰って来た。「お茶を零して、道子の着替えが見つからへんからシーツで服を作ってん」と言うと「え!」と次の言葉が出て来なかった。
暫くして「小さい箪笥に入っているのに」と服を出した。今度は妹の姿を見て「まあ!」と言ったまま黙ってしまった。
昭和三十年の初め頃は、まだシーツ一枚といえども貴重だったかもしれない。それを切りちゃちゃくって、おかしな服を作った私を母は頬を緩めはしたものの、褒めも咎めもしなかった。母が着替えさせようとしたが、妹は「いやや!」と頑固に頭を振って受け付けなかった。
そんないたいけな姿を見た父は妹に「ええ服作って貰ったなあ」と言い、兄は「吊り下げられへん『てるてる坊主』やなあ」とからかっていた。それでも妹は、ほっぺたを紅くして得意気だった。
ある夕方、洗濯したシーツを取り込んでいてふと思った。シーツで作った不格好な服はどの様な運命を辿ったのだろう。あの服を着てニコニコしていた小学一年生の妹は十三年前、僅か十一日間の入院で五十六歳で逝ってしまった。妹とは一度もあの服の話をしないまま……。
現在七十三歳の私にとって、過ぎ去った日々のひとコマであったが、あの服は今も私の心の中に鮮やかに浮かんで来る。