かわち野

かわち野第六集

遠き日の想い出

徳重 三恵

 近頃、私がテレビのチャンネルを合わせるのに『世界のこんなところに日本人が』というのがある。
 少し以前になるがこの番組で、子供の頃に両親と兄と姉妹の五人でブラジル移民した人物が映った。
 彼女は両親や兄、姉を手伝い、様々な苦労の末に今はサンパウロに住む八十歳過ぎの女性だった。若い頃には苦労は沢山したけれど、同じように移民してきた日本人と結婚し、夫が逝った後も子や孫など、大勢の家族に守られ、現在は幸せに暮らしている様子だった。
 それを見てふと遠い景色がよみがえった。
 六十五、六年も前のことになる。
 私が十歳、小学四年生のときだった。父が勤めていた会社の社内旅行、伊勢志摩に連れて行ってくれることになった。父と二人で出かけるなど初めてだし、おまけに一泊するという。普段から父は怖い人で、私はあまり父が好きではなかった。
「いやや、行きたくない」と言い出せず、妹も一緒なら良かったのにと思いつつ連れて行ってもらうことになった。ピンク色で提灯袖のワンピースを新しく買ってもらい出掛けたが、梅雨の最中で特にその日は雨が激しく降っていた。十人ほどの参加者の中に若い女子社員が一人いた。彼女に「なんていう名前?」と聞かれ、「ヨシオ」と父の名前を言ってしまった。一瞬、聞き間違えたと思ったのか、彼女は「ああ、ヨシコさんね」と言い、旅の始まりはヨシコさんと呼ばれた。
 同じ会社の人が父の名前を聞く不思議を感じつつ、「ヨシオ」と答えた自分のバカさにすぐに気がついた。どうしようと思った末、彼女に「私、父の名前を聞かれたと思いました。名前は三恵です」と言い直した。
 あのときの間の悪さは今も心に残っている。
 彼女は、「わたしは幸子というのよ。さっちゃんと呼んでいいよ」と気軽に言ってくれた。
 観光でめぐった夫婦岩は雨に濡れて、黒い波が次々と岩を打ち砕いている。海女さんが白い肌着を着て海水に潜り、上がってくるときにピーという、やや悲しげな磯笛を聞いたのも、その時が初めてだった。
 その十人ほどの旅に女子はさっちゃんと私の二人だけだったので、すぐに仲良くなり、手をつなぎ笑い合ったりした。そして一緒の部屋でゲームなどしたが、夜に思いがけないことを聞いた。
「わたしは中学校を卒業して、すぐにこの会社に入ったの。社長さんとは遠い親戚なのよ」
「いま、何歳ですか?」
「十六歳よ。わたしは和歌山県で育ってね、両親や兄や妹は和歌山にいて、わたしだけが大阪のオジサンのところで住んでいるの」
「一人だけで暮らすなんて、すごいですね」
「でもね、もうすぐ家族一緒に暮らせるの。もうすぐよ。あと三か月ほどしたら、わたしは家族と一緒にブラジルに行くの」
「えっ、それって……」
「大きな船で行くのよ。ブラジル移民と言ってね、村の人もたくさん行くのよ。向こうでは畑を耕して、コーヒーの木を育てるの。日本を離れるのはさびしいけれど、家族と一緒だから楽しみなのよ」
「この会社も辞めてしまうのですか」
「そうよ。色々と手続きがあって会社は、今月でね。神戸港から船に乗って行くのよ」
 そんな話を寝間の中でしゃべり合った。
 あれは十月頃だったと思うが、父と一緒に神戸港で大きな船に乗るさっちゃんを見送った。
 紙テープの端をさっちゃんに渡したが、船が進むたびに、からからと音を立て減っていくテープはすぐに空っぽになった。
 海面にはちぎれた紙テープが重なり合って、いくつもの虹が溶け合ったような、まるで夕焼け空がさざ波立っているように見えた。そして、見送りの人も船に乗っている人も、みんな泣いていた。
 私の古いアルバムには六月十日、伊勢志摩にてと書いた白黒の写真がある。
 幸子さんと二人で並び、提灯袖のワンピースの私が写っている。
 先日見たサンパウロの女性が、年恰好と言い遠き日の、あの幸子さんと重なって来て、「あの人の今は」と想い浮かべた。
 写真を見ても、もう顔などは朧だけれど、幸子という彼女の名前の通り、今も幸あれと思い願った。