かわち野第七集
白いゆり
鈴木 幸子
六月の初めに裏山で咲く白い山ゆりを見て、今の私の半分しか生きることができなかった母を思い出した。
昭和二十五年、私が小学校三年の終業式を終えると、父の仕事の都合で一家は福井県の九頭竜川の上流の村に引っ越した。十一月頃には家の周囲に雪囲いができ、根雪になると軒下まで雪が積もった。そして母は、雪解けの春まで雪の中に貯蔵する野菜の準備を村の人達に教えてもらいながら忙しい日々を送っていた。
雪の降る登校日には茣蓙帽子(むしろで編んだ帽子)を被った覚えがある。
雪の積もらない香川県から転校して初めての冬、体操の時間はスキーだった。おぼつかない足取りの私を、男の先生が肩車をして山を滑り降りてくれた。先生達は国体や県体のスキーの選手だった。
ある日風邪で寝ていた私に、母はお盆の上に雪でうさぎを作って枕元に持って来てくれた。耳は南天の青い葉、目は赤い実をつけている。部屋の中では、火鉢の上の鉄瓶の湯がシュン、シュンと音をたてて沸いていた。
母は、頼まれると村の人達の着物の仕立てをしていたが、新設された小学校の給食の仕事に誘われて勤め始めた。子供達から元気をもらえる様子で「給食のおばちゃん」と、呼ばれて仕事は楽しそうだった。日本手ぬぐいを被り、モンペ姿の母が今でも目に浮かぶ。給食の材料を運び入れる男性からよく新刊の本を借りて読んでいた。が、しかし五年ほど勤めた頃から体調を崩して、手術はしたが三年の闘病生活で四十四歳の若さで亡くなった。胃癌だった。
村の人達は、総出で葬式をしてくれた。
六月のどんより曇った日に、母とよく蕨採りに行った村の外れの山中で荼毘に付された。母は、木々が組まれた上に横たえられ、やがて火が入れられた。暫らくたって村の人の声がした。「胃の病気の部分が焼けない」その声に顔をあげて粗末な小屋の板の破れに目を向けると、白いゆりが一面に咲いている一角があった。
それからは、白いゆりを見ると私は胸が苦しくなる。母の墓地は村のお寺の一角にある。墓標は村の人達が九頭竜川で見つけてくれた丸みを帯びた河原石だ。
先日いつも行く市の図書館で、書棚に目を向けながらゆっくり歩いていると、原田康子著『挽歌』に目がとまった。この本は母が、給食の材料を運ぶ若者から借りて熱心に読んでいた本だ。早速私は借りて読みだした。
本の裏表紙には「白鳥の羽根のそよぎにも似た若い女性の微妙な心の動きを追って北国の風景の中に展開する愛と死のロマン」とある。私は、このキャチフレーズに目が留まり、住んでいた山深い福井嶺北地方の切り立った山々と、どんよりした雪空を思い出した。
母の一生は何だったのだろうと、ことあるごとに心を痛めていたのだ。苦しみの多い短い生涯だったと思っていた。が、本を読むことで夢見る乙女に浸る日が母にもあったに違いないと。そう思うと心が軽くなった。
福井を出て、大阪で暮らし始めてもう六十年になる。母の闘病を見守ったことが看護師になる動機だった。そして看護師になり、初めての臨終の患者さんに立ち会った時、この人も母と同じ天国へ行かれるのだという思いがこみ上げ、内心「母に宜しく伝えて下さい」と言って頭を下げた。
その後同じ大学の附属病院で定年まで勤めた。思い起こせば私の看護師人生は、特急列車で走り続けたようなゆとりの無い日々だったけれど、今はゆっくりテレビの気象番組を見ることができる。そしていつも福井地方の天気予報に目が向いてしまう。大阪と比べると、雨がよく降るなあ。気温が低いなあ。今日も曇りか。などと心のなかで呟く。雷のマークが出た時は、子供の時の記憶で未だに雪雷の恐怖が甦る。ガラスを震わす雷鳴だった。怖がっていると、「雪雷が鳴ると雪がたくさん降る」とよく母が言ったものだ。
今では雪の降る量も少なくなっている。あんなに怖い雷はもう鳴らないのかもしれない。
最近は里山で、白いゆりに出会っても胸の苦しさは無くなった。それどころか母に出会えたような懐かしさがこみあげてくる。
私も八十路近くなり、母に会える日がそう遠くないからかもしれない。
完