かわち野

かわち野第七集

0という数字

徳重 三恵

    祈り
 「痛い、痛い。臍の辺がキリキリ痛い」
 普段、あまり痛みなど訴えることのない夫が脂汗を滲ませながら、うなり声を上げている。15時頃の事である。どう見ても尋常ではない。私はすがる思いで掛りつけ医の往診を願った。
 早々に来て頂いた医師の判断で、隣接市のK大学病院の救命救急センターへすぐに救急車で到着した。
 十月十日、夕方の17時過ぎになっている。直ちに検査が始まるらしいが、問診表にチェックを入れろとか、造影剤を入れていいか、麻酔薬をするに当たって等々、同意書に夫の名と、妻である私のサインを何枚も書いた。
 待合室で待つこと2時間ほど、途中で現状の報告がある。夫は痛み止めを打ち麻酔で眠っているからと、伝えてくれる。その間に長男や娘に連絡をしておく。
 21時少し前に名前を呼ばれ、会社帰りに駆けつけた娘と二人で検査結果を聞く。医師はパソコンを操作し、ディスプレーに映っている画像を示しながら説明をする。
「腸骨瘤の破裂とS状結腸のイレウス(腸閉塞)があります。いま急ぐのはイレウスの方だけれど、腸骨瘤の破裂による出血を止めないと開腹手術も出来ませんので、血管にステントを入れて血管の補強をします」
 またまた、怖いことの書いてある同意書にサインをする。全身麻酔を受けストレッチャーに寝かされ、手術室に行く夫を祈りを込めて見送ったのは21時5分だった。
 24時、日付が変わってから名前を呼ばれる。「腸骨瘤の破裂の出血は止めましたので、今からS状結腸部分に出来たイレウスの、開腹手術に入ります」
 午前3時、再び手術室に向かう夫を見送る。
 同意書には最悪のことが色々書いてある。
 夫の命の戦いに、私はただ祈ることしかできない。一冊の本も持たず家を飛び出したので、手元にはシャープペンシル一本があるだけだ。とりあえず、昨夜から今に至るまでの事を書き留めながら、深夜の救急病棟の固い椅子に座ったり、立ったりするしか時間の潰しようがない。
 昨夜から深夜にかけての短時間に、手術室へ向かう夫を二度も見送ったが、いずれも精いっぱいの祈りを込めた。あとは扉を開けて名前を呼ばれるのを待つだけだ。
 色を抑えたⅠCU四階の待合室。深夜にもかかわらず、ときどきエレベーターの止まる音がして人の出入りがある。急遽呼び出しがあったのだろうか。他人ごとながら、夫と重なって心穏やかでない。
 みんな無口で病棟内に消えて行く。
 午前3時に入ってすでに3時間、四階の窓から見える景色に色がつき始めた。遠くに海らしきものが見える。堺港か、その続きの山並みは北摂あたりかも知れない。
 ICUの面会は一日三回、朝は7時から8時の1時間と決められている。7時になるとエレベーターが止まり、次々と面会者がやってくる。
 二回目の手術室に入ってから、すでに6時間経っている。
 十六年ほど前の、あの時も長かったな、なんて想い出していた。あれは腹部大動脈瘤の摘出手術だった。当日に手術する全家族が、大きな待合室でひたすら待った。名前を呼ばれた家族が、ぞろぞろ部屋から出て行く。けれど、わが家の名前は一向に呼ばれる気配がない。
 長男が「名前を呼ばれないのは、生きている証拠や」と。最後に呼ばれたのが、わが家で10時間ほど経っていた。
今、私はその言葉を反すうしている。

     命拾い
 9時になって、やっと名前を呼ばれた。
 昨夜と同じ医師の部屋に入ると、机の上にはナイロン袋に包まれた大きな嵩の物がある。 医師はまたパソコンを操作し、ディスプレーの画像を示しながら説明を始めた。
「大腸の壊死が進んでいました。一メートルほど切りましたが、まだ壊死のところが少し残っています。今後、また痛む可能性があるかも知れませんが……。やはりストーマ(人工肛門)になりました。これが切り取ったものです。見ますか?」
「いいえ、結構です」
 私はストーマのことは初めから聞いていたが、やはり、そうなったのかと思うしかない。
「ご主人はいま、麻酔で眠っておられます。醒めるのは夕方頃になるでしょう」
 ああ、生きているのだ……。
 二つの手術で、10時間もの命の戦いに勝ったなんてすごーいじゃない。頑張ったね。
 まだ顔は見られないようだけれど、昼の面会時にまた来ようと病院を出た。その足で、昨日、往診をして頂いた開業医の先生に病状と結果を報告して、家に帰り着いたのは正午になっていた。
 面会はあらかじめ登録しておいた人しか入れない。患者を守るためのシステムらしい。扉の前で「徳重寛二の妻の徳重三恵です」そう名乗ると、しばらくたってから「どうぞ入って下さい」と扉が開く。
 大きなフロアーにはカーテンで仕切られ、ⅠCUだけでも二十人以上の重篤な患者がいるように見受けられる。
 医師らしき人やナースも大勢いて、各人がそれぞれパソコンで何か作業をしている。看護師に案内され夫のベッドにたどり着く。酸素吸入のマスクをつけて静かに眠っている。
「お父さん、よう頑張ったね。えらいよ」
 私は顔を覗き込んで呼びかけた。
 もう、痛みはないのだろう。体中いたるところに、大きな機械から取り込んだコードが張り付いている。見るからに重篤な様子が窺えるが、間違いなく生きている。
 酸素吸入のマスクが自分の息で水滴がつき、白くくもっている。
 ベッドの横に大きな装置があり、波線のデーターや文字が絶えず動いているし、ときどきはピーピーとカン高い音が鳴って、赤い色が点滅する。大変なことになっているのではないかと心配したが、誰も覗きに来ない。
 すべてコンピューターで管理がされているらしい。
 優しい感じの女性看護師が丸い椅子を持ってきてくれる。この数値は何かと訊ねると、上から心拍数、血中酸素数、脈拍、血圧などと教えてくれたが、一度では覚えられない。
 大きな手術からまだ5時間しか経っていないからか、眉間に皺が縦に深く刻まれたままだ。昨夜の「痛い、痛い」がまた蘇る。
 腕には注射針が刺さったままだが、足には何もついていない。足をさすってもいいのか分からないので、看護師に訊いてみる。
「ああ、いいですよ。水が溜まって腫れてますからね」
 私はこわごわ足に触れた。温かい。  痛い思いをして命拾いをしたのだから、退院できるよう、ゆっくりでいいから頑張ろうねと、つぶやきながら足をさする。
 あっという間に昼の面会時間が過ぎた。
 また夜に来るからね、と眠っている夫に声をかけて病室を出る。
    そういうことなのだ…… 
 入院して一週間、一日に三度の面会が続いた。ある朝、私と娘が行くと夫は酸素マスクをつけず眠っていた。頬を軽く撫でて「来たよ」と声をかけると、私だとすぐに気づいた。相変らず滑舌は悪いものの、何を言っているのか聞き取れるように喋る。
「白いごはんが食べたいねん」
「おかずは何がいい?」
「大根の漬物とみそ汁。玉子焼も」
「じゃあ、お父さんの好きな、サンマもつけましようか」顔が笑った。手術以来、まだ一滴の水も飲んでいない。口が乾くらしく、女性の看護師がスポンジブラシのようなもので口を濡らしつつ、
「あら、寛二さんは和食党ですか」と笑う。
 大きな手術をしてまだ一週間だと言うのに、もうリハビリが始まっていると聞いて驚いた。 ベッドから車椅子に移動するときに、まったく立てなかったという。そらそうだろう。
 元々、パーキンソン病で歩行が無理なのだし、おまけに一日五回、時間を変えて薬をのんでいても歩けないのに、なんという無茶なことをするのだと私は文句を言った。
 初めから既往症の事は報告しているのに、どうも連絡が取れていないようだ。
 二週間目になった頃、気管チューブが喉に入れられ、もう話すことも出来なくなった。眠剤が点滴の中に入れられているようだ。呼びかけても眠っていることが多くなったが、私が来て呼びかけると分かるらしい。
「はーい、三恵ちゃんですよ。分かったら指を三回、つよーく握って下さい」
 そういうと、きっちり三回握り返す。
 その数日後、肺炎になったと医師から伝えられた。肺に水が溜まっているとも。オシッコも出ず手足のむくみがひどくなる。
 あと一週間ほどと医師はそれとなく告げる。
 三週間目には、呼びかけても何の反応も無くなった。これは、もしかして……。
 二人限定の面会だったが、何人いてもいいようになる。
 そういうことなのだ……。
 昨年十二月、私の長姉のときに頼んだセレモニー社に出かけて会員登録し、家に帰って遺影の写真を選んでおく。これは私が一人ですると決めていたので、しっかりせよと自分に檄を飛ばす。
 十月二十七日、夫は病床で八十二歳の誕生日を迎え、男子の平均寿命をクリアーした。
 三十一日、茨城県の筑波に単身赴任している長男が、夜の8時になってもまだ病院に到着しない。携帯に電話をすると「いま新大阪に着いた」と言う。
 ベッドの横にある数字の表示がどんどん下がる。家族で揃っていないのは長男の高志だけだ。
「お父さん、まだ逝ったらあかんよ。もうすぐ高志が来るから。待っててよ」
 じりじりしながら高志が来るのを待っていると、息急き切って病室に入ってきた。
「おやじ高志や。ありがとう」
 諸々の波線が真直ぐになり、心拍の数字が0と大きく、きっちりと表示している。
 死とは0なのだと改めて確認した。
 死亡した当夜と通夜の二日を葬儀社で連泊し、遺影とズシリと重い壷を抱えて家に帰った。その間に娘が、福祉用具のベッドなど借りていたものを、引取りに来てもらっていたので、家の中がガランとしている。
 その広さが悲しさを連れてきた。
 カーペットや畳に、十年ほど使った諸々の用具の型がぺコンとついている。それを見ると、ああ、いなくなったのだと実感する。
 十数年続いた看取りの暮らしからは解放された。取り立てて、それが泣きたいほどの事でもなかったからか、自分に戻ってきた時間をどう過ごせばよいのか、まだ分からない。
 病床で白いごはんを食べたいと言っていたので、朝にごはんを炊いて、ふわふわの玉子焼と漬物を供え、仏と同じものを毎朝食べている。
 ウインクの遺影が私に笑いかけた。