かわち野第11集
「年賀じまい」に想う ~点描の記憶~
徳重 三恵
毎年十二月になると、私は五十枚ほど年賀状を書いている。その多くの文面に、
「今年こそ、暖かくなったらぜひ会いましょう」の言葉を添えているが、書き続けて既に二十数年は経つ。
もういいのではないか、年に一度の交換記もピリオドを打つ時が来たような気になった。年齢がそうさせたのかも知れない。
そんなことで今年の年賀状にはグループ分けをして、「年賀じまい」の添え書きをすると、なんだかやけに楽になった気がした。
しかし年が変わり、一月も半ばになると妙に淋しさが募ってきた。その人、その人との想い出も一緒に消去したような……。
この感覚は何だろう。まだまだ使い慣れていないスマホを、一瞬の操作ミスでストンと消してしまった時の動揺に似ている。
今なら六十数年前の記憶を書き綴ることで、取り戻せる。そうすれば今も、そしてこれからもずっと繋がっていられるような気持ちになるのではと思い至った。
妙子さん、智恵子さんとは一九六〇年、都市銀行の同期入社で、大阪市内の同じ支店に配属となった。支店の作りは古風な感じで、天井が高く二階はバルコニー風になっている。
当時の事務はインクを使っていた。新入社員はお茶入れのほかに、支店長机の印肉を練ったり、ペン先をきれいにし、インクの吸取紙を新しくするのが朝一番の仕事だった。
同期は三人だが、妙子さんのほうが仲良しだったのは、同じ係りだったからなのかな。
正月には妙子さんと二人で、きものを着て京都に行ったが、あれはどこの神社だったのだろう。山門まで緩やかな階段を上った。確か、私はえんじ色の振袖を着ていたはずだ。このえんじ色の振袖は、母が趣味で絞った蝶の柄で、姉妹がそれぞれ順に着まわしていたものだから、何となくそんな気がする。
社会人になって初めての旅は同期の三人で3015メートルの立山登山だった。
いっぱしの山ガールめかしながら、へとへとになった。登っても登っても頂上にはたどり着かず、ゴロゴロと上の方から小石が落ちてくる。それらを避けながら、雄山の山頂にある小さな祠に手を合わせることができ、達成感を味わった。
その日の宿は室堂の小屋だった。この旅で初めてニッコウキスゲという高山植物を見た。草むらに黄色い花が揺れている。夏山の夕日はいつまでも沈まず、ずーっと見惚れた。
社会人とは言え、やっと成人式を迎えたばかりでありながら、自分たちで時刻表を繰りながら計画を立てた旅に大満足であった。
十和田湖にも行っている。
大阪から国鉄で一昼夜乗って青森の「浅虫」に着いた。私たちは座席を確保していたが、車内の通路は寝転がっている人であふれている。山形県の酒田駅では、駅員さんが水を窓から差し入れしてくれた。冷たくて喉にすっと流れる。浅虫の薄暗い宿の湯はけっこう広く白濁している。湯けむりのなか、目が慣れてくるとなんと混浴だ。乙女三人はびっくり仰天し固まってしまう。翌日は十和田湖を遊覧し奥入瀬渓流を歩いた。
この旅では八甲田山を登る予定でいたが、あいにくの台風に途中で断念したのだった。
富士登山をしたこともある。懐中電灯を持って真っ暗な登山道を歩いた。下から登ってくる人たちの、それぞれの灯が細い川となり緩やかに動く。その景色は今も鮮明にある。
智恵子さんは社内結婚で寿退社した。しばらくしてご主人の転勤に伴い、海外生活をずっと続け、数年後に帰国されたときに逢ってお土産を貰った記憶がある。たしか、名前はすぐには出てこないが有名なブランドのファンデ―ションだった。
その後も智恵子さんは海外生活が多かったようで、いつしか便りはしなくなった。
妙子さんが寿退社をされたのは何歳だったのだろう。一度だけ京都のお宅に呼んでもらったことがある。長男さんが四歳ごろだったか。駄々をこねる児にしっかり母親の顔で怒って見せた。
「ああ、お母さんなのだ」と、私にはちょっと眩しい友の姿を見た。
妙子さんとはその後もずっと賀状のやり取りはしていたが、実際に会ったのは数回あるかなしかだ。
私は定年退職をしたあと、エッセー教室に入ったが、妙子さんはピアノ教室に通っていた。同じように六十歳になってからのことだと思う。心斎橋あたりで会ってお喋りした。
「ピアノの発表会があれば知らせてね」なんて話したと思うけれど、まだ聴かせては貰っていないままだ。今も弾いているのかな。
私のエッセーはちっとも上手くはならないけれど、頑張り屋さんで真面目な妙子さんだから、きっと難しい曲を弾きこなしていることだろう。
以来、年賀状には、「今年こそ、ぜひぜひ」の添え書きばかりの一人となった。
令和七年の冬は例年にも増して雪が降る。
テレビは若かりし頃に行った「浅虫」の豪雪の景色を映し出す。
六十数年前に旅人として、ほんの一瞬ふれた土地だけなのに妙にノスタルジーを感じる。
「賀状じまい」はしたけれど、それで終わりではないのだ。
こうしてエッセーとして綴れば、もはや雪しまくように点描となった記憶のその奥に、はっきりと妙子さんはいて、まだまだ想い出は尽きない大切な友である。