かわち野第11集
化身に守られ
松本 恭子
令和七年巳年の新年が明けた。
私は昭和四年巳年生まれ。十月で満九十六歳になる脳裏を因縁めく蛇がよぎった。
四十四年前になる。部屋の中をなめくじが這うじめじめする社宅を出て、緑豊かで空気が美味しい河内長野市荘園町に家を建てた。
脳卒中で倒れ、右半身麻痺だった夫。休日は左手にシャベルを握り、新居の庭の方々に花苗を植え、綺麗に咲かせて楽しげだった。だがある日、医師から制限されていた晩酌の量とコップの底少しのおまけを惜しげに飲み干した後、再び脳梗塞を発症し救急車で運ばれ緊急入院。昏睡に陥り意識不明のまま十日後に亡くなった。
享年五十八歳。人生の半分余りを残して……。
慌しく葬儀。東京雑司ヶ谷霊園にある先祖代々の墓地に納骨が済み、はじめて涙がとめどもなく溢れた。
結婚生活三十年。我儘な私をいつも穏やかに包んでくれた夫。せめて身近で供養したい思いから、真っ白できれいだった喉仏を小さな骨壺に納めて、市内美加の台にある曹洞宗興禅寺へ祀らせて頂き、花束を抱えて月命日参りに通った。
その頃、最短コースだった三日市駅裏側から高台のお寺までの山道には、決まったように蛇が出た。行く手の前方を、または足元の草むらを並行して這い、怖気て足が竦むのを尻目に藪の中へ消えた。おそらく無数の蛇が棲む茫々の藪。程なく、この山は宅地造成でお洒落な家が建ち並び、不気味な山道はアスファルトの舗装道路に変わった。
しかし杞憂は晴れず蛇は現れた。側溝の上を伸び伸びと這うもの、熱く灼けた道を横切るものなど。だが山は元々彼らの寝座(ねぐら)だった。人間の都合などおかまいなく、堂々と地上に出て来ても不思議ではない。
だからと言って好きになれない蛇。冷ややかに濡れたような肌。無感情なのか声を聞いたことも無く、音もなく這う気味悪さに寒気がした。お参りのたび出て来ないでと祈り、避けて通りたいのに何故か必ず出会った。威嚇するわけでなく、心なし振り向き、静かに草むらに去っていく様子は、まるで私を待って出迎えてくれる夫の化身ではないだろうかと感じた。
今、夫の喉仏は福井県の曹洞宗大本山永平寺で安らかに眠っている。興禅寺主催の参詣一泊旅の折、ご住職の計らいで安置を許された。永代供養料を納めて託し、私が亡き後のことを思い安堵した。
十万坪の境内奥深く老杉が鬱蒼と茂り、静寂だった。私語を禁じられ身が引き締まる。翌日の夜明け前、暗い回廊をお勤めに駆ける修行僧たちの灯火が走っていた。ほぼ同時刻起床の檀家一同も共に清掃奉仕。座禅瞑想。一膳一椀、沢庵二切れの質素な食事に合掌し、百三十名余の僧侶が一堂に集まる勤行に参加した。読経は高く低くゆったり唱和して、揺り籠のように仏様たちの魂を鎮めた。
時の流れは速い。気付けば私の人生も遠からずになったあの世。その時は先に逝って待つ夫に会って伝えよう。
「ずっと守ってくれて、ありがとう」と。懐かしい笑顔が胸裡に浮かぶ。
老いて徐々に曲がってきた腰。ときに四十五度で歩くため、柱や扉に度々ぶつかり、先日も軽い怪我をした。また更に、リュウマチの指が醜く変形し、強張りで食器をよく割ってしまう。いよいよ独り暮しが限界になった。
「もう戻っておいで」空の上から夫の声。
早速息子と話し合った。同居の申し出を断り、家も、中の物全て現状のまま息子に委ね、私は即刻にでもと望んだ東京郊外の介護付き有料老人ホームへ入居することに決めた。娘の住居に近く、親孝行を期待しているのか……弱っていく心の底で。
小鳥が囀り、自然の森に囲まれた四階建。一階は厨房や広い食堂、喫茶室、美容室、図書室、ゲストルームなど出入り自由な社交的ルームで友達もできそうだ。二階から四階までの七十五室は現在満室で、十五人待ちと聞いて驚く。私の命間に合うのだろうかと心配。
基本は約十一畳の個室。トイレ、洗面台、クローゼットがある。見取り図に私の物を置いてみた。一方に電動ベッドと小さな整理ダンス。もう一方に魅かれて買ったサイドボードと台付きテレビ。椅子とセットの文机は新調して並べ、壁には夫が描きためた油絵を飾り、豊かな気持ちで暮らしたいと思った。
食事は部屋に運んで貰うことも可能で、上げ膳据え膳の極楽。好きな読書三昧。またホームで起きる恋のバトルも書いてみたい。肉体は老いても心や感情は死ぬまで枯れないもの。さぞかしと想像しながらの生々しい老春物語。ボケ防止の効薬になるかも知れない。
寒さが居座っていた二月。白梅の固い蕾が次々と花開き、南西角で花のように鈴なりの金柑。ジャムを作り、おすそ分けして喜ばれていた。小鳥が啄み撒き散らした南天の赤い実。つつじ、サツキ、寒椿が咲きついで毎年楽しませてくれた庭の景色。しみじみと眺め胸に収めた。
ざっくばらんな気質が性に合って、ほぼ半生を過ごした大阪の河内長野。思い出は抱えきれない程で、どれもこれも春風のようだった。
「さようなら」は寂しいけれど悔いはない。断ちがたい未練に手を振り、目前の百歳を目指して、亡夫が待つ東京へ飛び立とうと思う。
さあ、弾みをつけて‼