かわち野第四集
野牛と松坂牛
滝尾 鋭治
私は十月の半ばに長女と二人で、静岡県にいる叔母に会いに行ってきた。叔母は父の弟の妻で今年九十歳になる。一方、叔父は二十年ほど前に他界した。その後叔母は、同県で岡野内科医院を開業した長男に身を寄せるために大阪を後にした。だが、八十歳の頃にアルツハイマー病を発症し、現在は病状が進行して介護施設で暮らしている。が、いたって健康で何でもよく食べるらしい。
私は三十七歳の時に離婚して二人の娘をひきとった。長女が小学校六年生で次女は三年生だった。しかし、仕事と家事をうまくこなしていけるのか、という不安に苛まれていた。
また、夏休みに入ったばかりの頃で、自分が出勤した後の娘たちの心情を思うと私はいても立ってもいられない心境だった。
そんな私の胸の内を察したのか、叔父は夏休みの間は親子で家へくればよいと電話をくれた。うれしくて涙があふれそうになった。その後も毎年、私たちは春休みや冬休みにも世話になった。特に叔母は、多感な娘たちの母親代わりとなって色々な面で支えてくれた。
静岡駅から東名高速経由のバスに乗り、停留所に迎えにきてくれた岡野博一先生の車に乗りかえて邸宅に着いた。医院にはもう一人医師がいて、院長の彼は金曜と土曜をその人に任せているそうだ。叔母との面会は明日にして、久しぶりなのでひとしきり昔話に花が咲いた。博一先生はひとまわり下の丑年だ。
それで、叔母のきげんのよい時に度々言われた言葉が今も耳に残っている。
「鋭ちゃんは博一と同じ牛やけど、あんたはアフリカの草原を走り回ってる野牛や。しかし家の牛はビール飲ませて大事に大事に育ててる松阪牛や。同じ牛でも肉の値打ちは月とスッポンやで」と。その事を話すと、そんな事をよく言ってたねえ、と博一先生は笑いながら言った。
彼は昔、立命館大学を出て一度は社会人になった。が、医師への熱い思いが絶ち難く、一年で辞職して浜松医大に挑戦した。そして一発で合格した。叔母にとっては自慢の息子だった。
翌日の午前中、博一先生の車で介護施設に着いた。広大な敷地に、三階建ての大きな建物が建っていた。受け付けに来意を告げ、私たちは三階の叔母の部屋に向かった。
入り口を入ると、こちらに背を向けて座る叔母の姿があった。随分と会わない間に、叔母は小さくなったように私は感じた。三人は叔母の前面に立ち、博一先生が私は誰ですかと問うた。すかさず、よその小父さんと笑いながら叔母が答える。
私は途中の車中で思いついた言葉を叔母にぶつけた。姉ちゃんの弟の鋭治が会いに来ました、と。若い頃から、私は叔父夫婦をそのように呼んでいたからだ。
間髪を入れず、叔母は私の白髪頭を指さして嘘をつくなと言ってけらけらと笑った。見れば、叔母は九十歳なのに半分が黒髪だった。多分、叔母は自分の方が若いと思ったのだろう。だが、叔母は一人娘なのにその事には言及しなかった。
次いで長女が、私は久美子です。久しぶりやけどおばちゃん元気で嬉しいわ、と声をかけた。そして、叔母の右手を両手で握った。すると叔母はしばし無言で長女を眺め、次に視線を私に移した。その表情は叔母の過去の記憶が、脳裏で回転しているかのように見えた。
昔、おばちゃんにすごくお世話になりました。と、長女は言葉をつないで叔母の右手を優しく撫でた。とたん、叔母は和んだような笑みを浮かべて長女の手の甲をさすった。
よし、俺も、と私は思ってテーブルに置かれた叔母の左手を取った。顔の皺も少なく、手の甲もふくよかですべすべしている。私は姉ちゃん若い手してるな、つるつるしてるがなと言ってもう一方の手で何度かさすった。
とたん、叔母は奇声を発して私の手を掴み、やにわにテーブルに打ちつけた。九十歳とは思えぬ力と勢いだ。私はそんな叔母の仕種をかわいく思い、大仰に痛い痛いと叫んだ。すると叔母は、この人面白いと言って笑った。
それから私たちは交互に叔母に話しかけたが、たどたどしいながらも答えがすぐに返る。そして時々屈託なく笑う。昔の叔母は、陽気で話好きで頭の回転の早い人だった。今もその片麟に接して私はうれしくなった。
その内、おばちゃん私の手を強く握って離さない、と言って長女が泣きだした。私も過 去の様々な出来事が胸をよぎって目頭が熱くなった。突然、叔母がこの子昔な、よう家に来てたことあるねん、とポツリともらした。そして長女をしげしげと見つめて、あんたはええ子やと言った。たちまち、長女の瞳に涙があふれ、叔母の手を握りしめた。私はそんな二人を眺め、来てよかったとつくづく思った。
〈了〉