かわち野

かわち野第五集

箏と私

西村 雍子

 私がこの箏に出会ったのは、昭和三一年、十九歳の時。京都のK病院に看護婦として就職し、寮生活をしていた頃である。
 私が箏を習いたいと言ったので、伯父が送り届けてくれたのだ。伯父と父も尺八を吹いていて、邦楽には興味があった。
 箏には、竜頭部にバラと蝶の螺鈿細工が、その横には秋の草花の蒔絵が施され、赤い飾り房のある美しいものであった。
 この箏は、伯父の大工の師匠のお嬢さんが遺されたものだったと聞かされた。この箏が作られたのは今から百年前、いや、それ以上かもしれない、とのことだ。 
 仕事を終え、週一回の箏の稽古は電車で出かけた。先生は生田流の菊月秋栄といった。有名な大阪の師匠のお弟子さんだったと、伯父から紹介された。
 先生はお母さんと妹さんの三人暮らしで、二階が稽古場になっていた。子供の頃の病気が元で、視力をなくされていた先生だったが、少しもその様な不自由さを感じさせず、あの頃の録音機を難なく操作しておられた。今、手元に残っている初伝の免状をみると、昭和三一年一二月一八日とある。この免状をいただいて、初めて六段の曲がお稽古出来るとの事であった。
 六角堂会館での演奏会で、着物を着て、生まれて初めて髪にパーマをかけ、六段の調べを弾いた。その頃の私は、傲慢で負けず嫌いで、失敗や恥ずかしい思いも多くあったが、筝曲に関しては、思いが叶うことがうれしかった。
 箏曲には唄、三絃がつき、唄は箏を弾きながら習い、三絃は中棹を使う(「三弦」は三味線の別称で、筝曲では正式名称である)。先生にお願いして中棹の中古を購入した。入門初級を経て、三絃の音のツボがわかりかけた頃、修道院へ入会を決意し、三絃は先生に引き取ってもらった。
 その後、箏も三弦も手にすることなく、三〇年が過ぎた。
 現在の住いに越してから、子育ても終え、千代田公民館の邦楽クラブを探して入会できたのは、五十歳の頃だった。今度は三絃を主に稽古を希望し、細棹で初級から始めた。
 その細棹は、箏店のショーウインドウに飾られた三弦を見ていた時に、中年の女性から声を掛けられ、「使わない三味線があるから」と、ゆずってもらったものだ。
 公民館の活動発表会には、箏と合奏を、三絃の曲の無い時は箏を弾くことが出来た。
 暫くして友人から、中棹の三絃を譲ってもらった。細棹とは音の違いがはっきりし、ずしりとした重さがあり、本格的に地唄が弾ける喜びを得た。
 私たちのクラブも、最初、部屋がいっぱいになるほど会員がいたのに、一時は五人を切り同好会となった。しかし、今再び会員が増え、クラブとして頑張っている。
 昨年、国立文楽劇場の「箏曲地唄演奏会」に私たちのクラブの出演が決まり、ほかの会の方たちと、尺八との猛練習をして『さくら21』の大曲を無事演奏し終えた。その時の達成感は今も快く記憶に残っている。今年も九月に新大阪のメルパルクホールで開催される「都山流大阪府支部尺八演奏会」に、尺八との合奏で出演するため、練習に精を出している。
 その練習には、今も六十年前に手に入れた、あの箏を使っている。螺鈿も蒔絵も変わらず、その素晴らしさは、見るたびに私を満足させる。音は今も変わらず確かである。
 しかし、もうそろそろ引退をと考えている。本当によく頑張り、私に付き合ってくれたと感謝するばかりである。だが、まだ手放す決心がつかない。三絃も今はケースの中に納まっているが、お正月や時間の許すときには、取り出して楽しみたいと考え、手入れは怠らない様にしている。箏も三絃も、私にとって人生の良き友であり、財産である。
 そして、子供か孫が邦楽を趣味にして、箏か三絃、尺八を楽しみ、合奏が出来ればと願っている。
 昔、六段の調べを伯父の尺八と合奏したのを懐かしく思い出しながら。
平成二九年八月 記