かわち野

かわち野第六集

ちょっくら変わり者

滝尾 鋭治

 ぼくは自分のことを、ちょっくら変わり者だと思っている。自分でそう思う位だから、他人から見ればかなり変わった男と映っているかも知れない。そのことを裏づけるように、親族の何人かにあんたは変わってると言われたことがある。だが、誰に何と言われようがいっこうに頓着しないから、やはりちょっくら変わっているのだろう。
 では、なぜ自分をそう思うのかを述べてみる。子供のころから本を読むのが大好きだった。昔の子供は家の手伝いをよくさせられたものだ。一例をあげると、井戸水をポンプで汲みあげて大きな水ガメにためる仕事があった。
 ぼくは本を読み始めると熱中してしまう。そんな時に用事を言われたりすると、生返事をしてなかなか腰をあげようとしない。そんなことが度重なり、小学三年生の時に継母となった人に「お前みたいな本気違いみたことない」とののしられたものだ。しかし、級友の多くが読んでいた漫画にはまったく興味がなかった。恐らく継母は、ぼくのそのような子供らしさのないところにも腹を立てたのだろう。
 小学校の高学年のころから中学生にかけては、学校の図書室で借りた偉人伝をよく読んだ。やがて、十代の後半からは大衆小説を疎むようになり、純文学の作家の作品を愛読するようになった。そのころ、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞を受賞してベストセラーとなった。が、ぼくはそっぽを向いていた。
 その理由は、人様がちやほやするものに反発する生来の気質に加え、主人公の青年が己が屹立した一物を障子に突き立てる場面が評判となったからだ。そんなしょうもない小説、一生読んでやるものかと当時のぼくは思った。
 とにかく、ベストセラーは敬遠した。しかし、一度だけ例外がある。それは大江健三郎が、『飼育』で芥川賞に輝いた時だ。その時彼は、二十三歳の東大生。一九三七年生まれのぼくは二十一歳だった。年齢が近い、しかも東大生の大江の作品に興味を抱いたからだ。さっそく、「文芸春秋」を買って読んだ。ぼくはそのころ、将来は純文学の作家になる夢をもっていた。
 それから幾星霜。三十七歳の時に離婚して二人の娘をひきとったぼくは、読書などと言う悠長な時間とは無縁の日々に身を委ねていた。そして四十の半ばに現在の家に引っ越したが、いずれは小説のねたにしようと書きためた日記。また、石川啄木に魅せられて作った何百もの短歌や何作かの小説。さらには小説の資料にするために切り抜いていた新聞の様々な分野の記事。それらが詰まった大きな段ボール箱二杯分を処分した。お前はいつまで、甘っちょろい夢を追っているのだと自分を叱って。
 やがて、六十五歳になって料理人としての人生の終焉を迎えた時、「大阪文学学校」に入学した。動機は痴呆になって娘に迷惑をかけたくないという強い思いと、今一つは吹き消したはずの文学への情念が自然発火したからか? いずれにしても心が弾んだ。
 略称「文校」は年間授業料十万円。また、最寄り駅から地下鉄谷町六丁目駅への交通費。さらには全員参加の二次会でのコーヒー代。その後には飲み会があってよく誘われた。六年間在籍したが、費やした額に見合った成果が得られたか、と訊かれるとそれは疑問だ。
 このころのぼくは、ベストセラーへの偏見を捨てていた。結果、芥川賞の受賞作は必ず買い求めて精読した。さすが受賞作と内心拍手を送りたくなる作品もあるが、中には選者に反発したくなる受賞作もある。と、言うことは、筆力の向上うんぬんは別として、読解力はそこそこ身についたのでは、と思う。
 これは私論だが、文学と料理には共通点がある。料理はずぶの素人であれ、味覚音痴でない限り美味か否かは判る。文学もまた然り、たとえ己が筆力は未熟であっても、読めば味付の善し悪しの判定に戸惑うことはない。
 文学以外でも、ぼくは人様が重宝する物には関心がなかった。携帯電話やパソコンの類いだ。現にわが家は今も黒電話を愛用している。それでいて何ら不自由は感じない。
 さて、ここまで書き記したものを読み返してみたが、やはり自分はちょっくら変わり者だとの認識を強くした。一方で、人のまねをしない独自性もいいものだと評価している。
 ぼくは今年八十二歳になる。が、杖にすがることなく、ほぼ毎日一万歩以上歩いている。若い人から見れば、ちょっくらおぼつかない足どりかも知れない。でも、それでいいではないか。同級生の中にはすでに鬼籍に入った友や、杖や車イスに頼る者も少なくはない。
 ぼくは年金が少額で質素に暮らしているが、恵まれた余生を送れている。これはひとえに、五歳の時に夭折した母。十二歳の時にこの子が高校を出るまで生きていたいと泣いて旅立った父。二人に見守られているお蔭と感謝し、朝な夕なに位牌に向かって語りかけている。〈 了 〉