かわち野第八集
看護師気質
鈴木 幸子
令和三年の五月の初め、変異型コロナウイルスの猛威大阪病床危機と、新聞の見出しが躍っている。
五月五日で国の要請二週間の自粛が半分終わった。ガラス戸を開けて深呼吸すると五月のさわやかな青空が広がっている。新緑をバックに自由に空を飛び廻っている鳥を見ていると電車に乗ってどこかに行きたい。旅行がしたい気持ちが増すが抑えながら私は最低限の食料品を買いに行くだけでテレビと新聞で情報を得る日々を送っている。すると、また、五月二十九日の朝刊に六月二十日まで緊急事態宣言延長の見出しが出ている。
平成二十六年に夫は亡くなり私は独り暮らしとなった。愚痴を言う相手も居なくなった。
昭和五十三年息子の小学校入学を機に、河内長野へ越して山を切り崩した新興住宅地に家を建てた。それから大阪市内の大学附属病院へ六十歳の定年まで往復二時間以上はかかる近鉄電車での通勤の日々が続いた。
勤務は三交代制だ。職場での既婚者で子供があるのは、私ひとりであった。
河内長野の自宅から駅までの1.2キロ通勤路の石川沿いにラドン温泉が建った。
建つ前からもその近くに郵政の保養所があり朝の通勤路に石川の河原を散策する浴衣姿のお客がいて硫黄の匂いが漂っていた。(その跡地は現在高層マンション)
河内長野駅には南海線と近鉄があり、南海線は高野山まで続いているが近鉄電車は阿倍野駅を出ると古市で吉野行と別れて河内長野が終点だ。駅の構内の売店ではみやげ物が並び(今、売店は無い)それらを目にするたび「思えば遠くに来たものだ」と歯を噛み締めて若さで頑張っていた。
病棟看護師の仕事は三交代で日勤、準夜勤、深夜勤で若い独身の看護師仲間と楽しく働いていたある日のお茶の時間に、ラドン温泉の話をすると四、五人が、行きたいと手を挙げた。
ある晴れた日の、日曜日・土曜日をのぞいた平日のある日に五人が河内長野駅で待っていた。駅から近いラドン温泉に案内した。
館内は、空いていた。平日の昼間なのでおばあさんが三、四人おられた。
久しぶりのラドン温泉で私は身も心も解放されてゆったり湯船に浸っていた。
洗い場に目を向けると一人の看護師がおばあさんの背中を流してあげていた。それを見ていた、もうひとりのおばあさんが羨ましそうに声をかけたのでもう独りの看護師も同じように背中を流してあげた。
気分転換にと思って誘ったのに、病院勤務と同じことをしている。と、一寸と胸を突かれた。
後日、職場の休憩時間にその話が出た時、「田舎のおばあちゃんを、思い出した」。と、彼女は明るく話した。
五月三十一日読売新聞の「編集手帳」に、「ナースたちの現場レポート」(看護協会出版会)コロナ禍の中の病院勤務の看護師の実体が取り上げられていた。
その中の一つに、コロナ病棟の勤務をしていると、「子供の行事に参加できない」両親からは「同居はやめてほしい」とあり「看護師も生活者の一人ということを知ってほしい」という子育てをしながら看護師を続けている訴えに胸が痛んだ。
中傷や偏見の中で頑張っている記事を読むと戴帽式のナイチンゲールの誓詞が甦ってくる。
ナイチンゲールは〈犠牲なき献身こそ真の奉仕〉看護師の自己犠牲に頼るようでは、優れた看護はできない。百六十二人が記した「ナースたちの現場レポート」(日本看護協会)が今の日本の医療が看護師の犠牲の上に成り立っていることがまざまざと見て取れた。
完