かわち野第八集
あの頃・あの人
滝尾 鋭治
人は誰もが、齢を重ねる度に色々な過去を背負う。私も例にもれず喜怒哀楽と共に人生を歩んできた。そして終に、そのような過去を背負いきれない、寿命が読める年齢に達した。
俗に十人十色というが、人はそれぞれに人生の来し方がちがう。平穏無事に生きられる人もいれば、艱難辛苦にあえぎつつ生涯を終える人も多い。私は十代の前半に両親と死別したので、後者である。
因って中卒で社会に出たが、底辺の空気は淀んでいて日々見習いの身には応えたものだ。つまり、一事が万事、しごかれ続けた。だが、人生には陰陽がある。陽とは喜楽を指すが、当然の事ながら限られてくる。その分、やり甲斐を含めて話の幅をひろげたい。そうした体験は誰しもが、若かりし頃に真摯に仕事と向きあって体得した、言わばその人の無形の財産に違いないと思うからだ。
当時の私は二十歳。中学二年の時に家庭の事情で継母の故郷、徳島県南部の村の中学へ転校した。その後徳島市内のパン屋で丸四年働いたが、やはり生まれ育った大阪が恋しくなり、知人を頼って帰阪したばかりだった。
そして就職したのが「旭堂」という飯屋の屋号のような珈琲専門店。すぐそばに土佐堀川にかかる肥後橋があり、対岸は中の島で朝日新聞大阪本社の広大な社屋があった。
その頃の為替レートは一ドルが三百六十円。夜鳴きのラーメンが一杯三十五円なのに「旭堂」の珈琲は七十円もした。近隣の店は軒並五十円だったがそれでも繁盛していた。その理由は、どの店も使ってない高価なブルーマウンテン、しかも一等級の生豆を自家焙煎したものを二割も混ぜていたからだ。因って、常連客の大半を味にうるさい朝日の社員が占めていた。朝日の記者は全員東大卒と聞いたが、それ相応に収入もよかったのだと思う。
私は住みこみの見習いで食事つきで五千円。地域はビジネス街なので日曜が定休日。それ以外の日は朝八時の開店から夜九時の閉店まで休憩なしで働いていた。だが、以前のパン屋は同じ条件で収入は三千円。だから何等不満なく仕事に精をだしていた。
それまでは、収入の全額を継母に送金していたので、初めて自由になる金を貯めて大人の象徴ともいえる背広を買うべく張り切っていた。だから一層仕事にやり甲斐を感じて。
五時でウェートレスが帰るので、以後はウェーターもした。夜は朝日の社員から度々出前の注文が入る。一番多かったのが、運動部と写真部だ。ある夜、運動部の池北記者から注文の電話がきた。一人分のセットを手に運動部の部室に入ると、何と池北さんがイスにもたれて両足を机にのせてテレビのプロ野球を観ているではないかーー。私は思わず「仕事中にテレビ観てはるんですか」と言った。「あほか見習い。わしはこれ観て記事を書くんじゃ!」とどなられた。そんなん有り? と内心意外だったのを今も覚えている。
翌朝の朝日新聞のスポーツ欄に目を通すと、対戦チーム名は忘れたが確かに観戦記の最後に池北の署名があった。
次なる忘れ得ぬ人は、池北さん同様夜勤明けには店に立ちよってくれる珈琲好きのカメラマンだ。京都の人だが名前は忘れた。
ある夜注文を用意して行くと、作業が終わったらしくて初めて暗室に入ってゆっくりして行けと招き入れてくれた。暗室といっても三十畳位の広さがある。そして何面かのプールがあり、翌朝の紙面を飾る写真の原板が沈んでいるのが目に留まった。
ものめずらしさに辺りを見まわしていると、「おい、坊ちゃん。早いとこいっちょまえになろう思うたら、おいしいと評判の店の飲み歩きして研究せんとあかんがしとるのか」
と声をかけてくれた。私は先日の休みに大阪一と評判の、心斎橋大丸の近くにある「BC」に飲みに行ったと答えた。すると、「京都で一番うまい店には行ったか」と問われたので首をふると、「京阪三条駅の近くにある『純喫茶・六曜社』に行ってごらん。あそこの珈琲はうまいぞ」と場所を教えてくれた。
さっそく次の休みに訪れると、確かに深い味わいと香り高い特級品の珈琲だった。
それから五十年後、私は京都大原で実施された「大阪文学学校」同級生達との一泊読書会に参加した。その帰途、青春の郷愁に誘われるように、三条河原町の「六曜社」に立ちよった。まずは香りを嗅いで口に含んでゆるりと喉へ。味はあの時のままだ。一気に「旭堂」時代が蘇る。私はレジ係の店主に往年の経緯を手短に話し、変わらぬ味と香を称えた。彼曰く、私のような旅人が時に訪れるらしい。
〈 了 〉