かわち野

かわち野第八集

ほお紅

黒江 良子

 コロナ禍でのマスク着用のお蔭でお化粧を省く日常が続く。せいぜい基礎化粧品を付け、日焼け止め、 ファンデーション止まりとなる。コロナ禍も二年余りになると使っていた口紅やリップクリーム、ほお紅が古くなり処分する事にした。一つ一つを小さなゴミ箱に捨てて行き、ほお紅もその中へ。しかしピンク色のほお紅が何故か後ろ髪を引いた。
 そしてゆっくりとセピア色の想い出が懐かしく浮かんできた。
 小学四年生の頃、学芸会がある日の朝食後に母の「良子おいで」と呼ぶ声がした。
「なに~」と駆けて行くと母は、鏡台の引き出しの上にほお紅と刷毛を置いて待っていた。
 母は髪結いをしていて、子供が五人いるので多忙極まりない日々を送っている。中々、私と二人だけのゆっくりとした時間が持てないので呼ぶ声を聴いた時、心躍る思いであった。傍に行くと甘やかな匂いがし、時折、鬢付け油の香りが漂って包み込まれる様な安らぎを覚えた。
 母に「こっちを向いて」と言われ顔を向けて座った。「今日は学芸会でしょう。ちょっと顔色が悪いのでほお紅を付けたらと思って」とにこやかに刷毛を右手に取った。余分なほお紅を左手の甲にひとハケ落とし、私の顎を少し上げ両頬にひとハケ、ふたハケはいた。
 それから母は浅く反るようにして私を見て「顔色が良くなったよ」と柔らかい笑顔を見せた。
 その時、玄関のほうから「良子ちゃん学校へ行こう」と登校の誘いの声がして、母は「誘いに来てくれたよ、行っておいで」と玄関まで送ってくれた。
 玄関を出た途端、和らいだ余韻が解け、ほお紅を付けているのを友達に悟られないように前ばかりを見て話をしながら登校した。一度チラッと友達の顔をみると訝しげに私を見ていた。
 校門に着くや否や、水道を目指して突っ走った。私は蛇口の栓を捻り、袖が濡れるのも顧みず、頬に水を付け軽くたたいた。ハンカチで拭いていると友達が息を切らしながら近づいてきて「どうしたん?」「何もない」と素っ気なく答えて「行こう」と一緒に教室に入った。
 学芸会は劇に出たが、何も記憶に残っておらず(お母ちゃんがせっかく塗ってくれたのに水で流したのが父兄席から分かるかも知れない)と小さな自責の念に駆られていた。
 家に帰ると母が「劇、良かったよ、ネズミ可愛かったよ」と笑顔で言った。
 私は母に秘密を持った後ろめたさを感じて「う、うん」と曖昧な返事をした。
 後年、母は六〇歳後半から病気がちになり体調の優れない時は我が家に来ていた。
 ある朝、ベッドを覗くと顔色が悪く胸を突かれた。
 そっとカーテンを開けると柔らかい朝の光がベッドに差し込んでいる。お日さまに照らされた母の顔は産毛が光っていて特に口の周りは髭のように濃くなっていた。薄目を開け眩しそうな母に「口の周りに髭が伸びてどっかの偉いさんみたい」と笑いながら言うと「そうでしょう、長いこと顔そりしてないもの」
「今、横になっているので顔そりしようか」と聞くと「うん」と頷いた。
 顔にクリームを塗り慎重にゆっくりと剃刀を当てた。それから温かいタオルで顔を拭きベッドのふちに座って貰い、肩にタオルを掛けた。化粧水、乳液を塗り薄く粉白粉を付けた後、ピンクのほお紅をひとハケはくと、生き生きとした顔になった。
「偉いさんからべっぴんさんになったよ」と手鏡を渡すと、覗き込んだ母は「ほんと! べっぴんさん」と弾けんばかりの笑顔になった。
 たった今、捨てたばかりのほお紅を拾って両手で包み込み、もう使わないであろうに、再びそっと引き出しにしまった。