かわち野

かわち野第九集

朝の散歩

鈴木 幸子

 家を出て、岩湧山を背にして十メートルほど歩くと、清教学園の裏門につく。公園入口の学校の時計は九時を指していて通学の学生の姿はみられない。
 空を仰ぐと吸い込まれるような青空が広がっている。
 細い山道には黄色い柿の葉がグリーンの斑点の模様をつけてなだらかな坂道に散らばっている。八十路になった私はそれなりに気を付けながら足場を選んでゆっくり公園まで歩いた。公園の広場にはシルバー人材センターの車が止まり二人の作業員の姿があった。
 他に人の姿はなく河内長野駅から公園に向かってくる階段を上がってすぐの場所へ着いた。
『黄金塚にまつわる伝承』と書いた立て札が目に付く。看板の内容は、黄金塚には楠木正成が黄金を埋蔵した伝承がある。
(以下立て札の内容)
「朝日さし夕日かがやく、みつばうさぎのその下に小判千両のちの世のため」
と、いう歌が伝えられています。また、長野公園(長野地区・河合寺地区)は楠木正成が築城した『河合寺城』であり、長野地区の展望台付近、河合寺城本丸跡地区でもあったと云われています。
 元弘二年(1332)楠木正成の設けた城塞の一つとしてここ長野公園に河合寺町という出城がありました。鎌倉幕府と後醍醐天皇との戦いで天皇側であった楠木正成は千早城にて約千人の軍で幕府側数十万人を迎え撃ちました。
 またここから歩いて行ける距離にある観心寺も楠木正成が学習したという建物も残っていて先人が築いてきた土地に今くらしていることに襟を正して受け止める気持ちになった。
 帰り道は右に南海電車が高野山を目指している力強い電車の音が聞こえる。遠くへ目を向けると岩湧山が見える。山頂付近で、少し山の色が変わっているのはすすきのようだ。以前、岩湧山の山頂からイズミヤの看板を見たことがあった。あの時は望遠鏡で見たのだったかどうか定かではない。岩湧山に共に登った友も年を重ねて疎遠になった。あの頃の元気が懐かしい。
 ゆるい高低のある坂道を、多量に落ちているドングリの上に足を乗せないように気を配りながら歩いているが薄紫の野菊が「おはよう」というように咲いていると、気を取られて体がふらついたりする。
 公園裏の入り口まで戻った。きれいな柿の葉の落ち葉を踏まないようにしながら歩いた。 そうだ、この落ち葉、仏壇にお供えして主人にも見てもらいましょう。
終わり