かわち野

かわち野第九集

美しい地球の上で

松本 恭子

 父の転勤で小学五年生から住むことになった、北海道室蘭市母恋(ぼこい)南町には、地球が丸く見えるスポットの、景勝道内一位の地球岬があった。
  百メートル余りの断崖絶壁の上から望む太平洋は雄大で、はるか彼方の湾曲めく地平線。ふりそそぐ日差しが波間にキラキラ輝いて、思わず感嘆の声があがる。
  眼下の黒ずむ海面の下には昆布が群生し、波にもまれのどかに揺らめいている。遠浅の海水を透かす白い砂地。夏の焼けるような砂浜には、びっしり敷きつめた昆布の天日干し。細い道を下って来て海水浴を楽しむ人々で溢れた。
崖下の淵はがくんと深く、素潜りで岩の間のウニを採ってくる人もいて、刺々の黒い殻を石で叩き割り、とろりと甘い実を食べさせて貰うこともあった。
 だが、こうした平和な日々も小学六年生までで、私が女学校に進学すると同時に太平洋戦争が起こり日常は一変した。
 規制が厳しくなり、憧れの細い襞スカートもズボンに変わり、授業には勤労奉仕が組み込まれ、英語の科目は敵国語という理由で外された。それでも、勝ち続ける戦況ニュースを信じて、贅沢を言わず銃後の守りに徹した。
 しかし、戦地の形勢は徐々に不利へと傾いていった。そして終に各家庭から鍋や釜、古釘一本残らず、金属類すべてを供出という事態になって、初めて米・英との軍事力の差を思い知らされた。この戦争と自国の無力を、「蟻が象に挑んだようなもの」と批判しひそかに囁く人もいた。
 母恋には軍需工場の日本製鋼所。隣の輪西町には製鉄所があり、私たちのクラスが勤労動員された日だった。地球岬のはるか沖合に、米国艦隊出現を知らせる警戒のサイレンが鳴りひびき、弾丸を削っていた旋盤を止め、工場内の防空壕に避難した。やがて無事解除。作業は中止でそく帰宅のため裏門にさしかかり、足がすくんだ。
 艦砲射撃の砲弾が、門のわきのタバコ屋を直撃していた。黒々と深くえぐられた巨大な穴。店番の美人と噂の娘さんが電線に引っかかっていたと聞いた。道ばたには筵を被せられた死体が並び、その間を震えながら通り抜けた。
 父はこの後すぐ、母恋から離れた内浦湾沿いの本室蘭に、森に囲まれた神社の社務所を借りて家族を疎開させたが、安全ではなかった。
 ある日、姉と私が森の端に腰かけて海を眺めていると、上空から音を消し急降下してきた一機がいきなり発砲してきた。とっさに森の中に逃げ込み命拾いした二人を、父は敵の偵察機だろう、油断するなと𠮟った。
 これらのことがあって程なく、日本は広島、長崎に原子爆弾を投下されて、無条件降伏をした。無謀な戦争だった責任を問う東京裁判では、軍人たちを戦犯として裁き、処刑した。
 ただ、真っ当と言えただろうか……。
 日本の負けは目に見えていた。にもかかわらず、あたかも新型原子爆弾の威力を試すかのように、両市を一瞬に焼き払い、多くの尊い命を奪った罪は何より重い。森の兎狩り気分で銃を向けた兵士の行為も然りで、冷酷な米国こそ裁くべきと叫びたい気持ちを抱えて、私は無惨だった光景を思い出すたび胸苦しくなった。

 平和が戻って久しい。
 二〇二二年(令和四年)、二月四日から二十日までの十七日間、北京冬季オリンピックが開催された。地球上の国々から、むごい戦争を知らない若人たちが集い、熱戦を繰りひろげた。コロナで必須のマスクごしに、競技に全力を尽くしおえた荒い息遣いを、テレビカメラは清々しい印象で映していた。
 私は生き長らえて、暖房の効いた部屋で観戦しながら、フィギュアの米国代表、ネイサン・チェン選手が軽やかに跳ぶ演技に拍手を送った。そしてふと頭の隅で、殺し合う戦争こそ大罪なのだと気づき、抱えていた胸のわだかまりを吐き出した。

 オリンピックを祭典とも言い、様々な競技を披露して楽しませてくれた。勝敗が決まっても、肩を抱き合い握手をし、お互いを称えあっていた世界の選手たち。私の目には、平和でまん丸な、青く美しい地球が見えていた。